たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

どんな英雄でも・・・

どんな英雄でも召使の眼から見ればタダの人、という言葉について、
塩野七生さんが述べられている(文芸春秋12月号)。

どんな英雄でも召使の眼から見ればタダの人、という言葉という言葉があるが、ある程度までは正しい。身近にいた人の観察は、やはり参考にあたいするのだから。だが、この視点だけでは人間はわからない。それでこの一句も、私は次のように解釈することにしている。タダの人でしかない召使の眼から見たから、タダの人ではない英雄もタダの人にしか見えなかったのだ、と。


大きな人は、余りに大きくて頭がどこまで出ているのかが見えない、と思うことがある。人の大きさは外見や容貌からはわからない。ただ何となく大きな人だなと感じるばかり。こういうときは注意しなければならない。すっかりこちらが見透かされていることが多いから。


しかし日常の行動や日々の暮らしばかりを見ている召使の眼からは、どこといって特徴のないただ茫洋とした主人を、見誤ることは充分あることだろう。大きな人の日常の暮らしは、いたって平凡であるはずだ。ことさら奇異な行動をとったり、何かの嗜好にはまっているという傍目でもわかりやすい姿は、おそらく次第に姿を消してしまっているだろうから。


願いの大きさとか、志の高さ、あるいは宗教的な要素などは、めったに外見に出るものではないと思う。いや外見には確かに出ているのだが、余りに平凡で変哲もなく、微かな違いなので、同じく高い見識から視ないとそれは見えないということだろうと思う。荘子に出てくる木鶏のようなものではないだろうか。