たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

名古屋で

八木幹夫さんのお誘いがあって、八木さんによる辻征夫没後10周年のトークイベント(名古屋・シマウマ書房内)に出かけてきた。辻さんのほとんど肉声ともいえる身近なエピソードや、また八木さんや井川さんなど友人との交流の様子が記念写真やスナップでも紹介されて、いままでなんとなく謎だった辻征夫像が少しピントが明確になった。


写真でみる見かけの穏やかさや、詩の言葉のやわらかさとは裏腹の内面の毅然とした詩人像が浮かび上がった。いや本当のところは、毅然と守るべき自然なもの、また繊細なものがあったがゆえに、詩や外見の姿がそこから導かれていたかもしれない可能性にも気づく。配られたレジュメ資料には、辻さん自筆の年譜があり、管理者試験を意図的に回避したという記述があり、そのことに合点がいった。


書棚には、30年前、自分が社会人になったばかりの頃に購入した詩集『落日』がある。このなかの「落日−対話編−」という詩によって、辻征夫に魅入られてしまった。言葉の働きはこれほど、生々しく心を揺さぶるものなのかと驚いたのだ。それ以来30年の付き合いだ。


魅せられ続けている詩といえば、トークイベントの資料にも掲載された「鳥籠」、「宿題」。他には「まつおかさんの家」。自分には、八木さんの言われる「自然なもの」、「深いところにあるもの」が、辻さんの奥底にある「おさな心」と言っていいのではと常々思っていた。深いところにあってふわふわと頼りなく、それでいながら何歳になろうとも、繰り返し心の深いところから湧いてくるもの。生きることの原始の姿、帰って行くべき領域。たぶんこれが読む人の心に伝播して深い了解を生むのだと思っている。


八木さんがよく言われていることだが、辻さんの詩には、たった一行の転換、挿入が、詩の空間をガラッと塗り替えてしまう魔術が潜んでいる。主体の転換、意味の転換など巧みな展開の言葉がある。
好きな「鳥籠」の詩でいえば、第3節でとつぜん出てくる呼びかけだ。
「まごしろうどの」・・・
それまでの情景記述が、ここで対話の世界に豹変させられる。その導入の仕方が、何べん読んでもみごとだと思う。おさな心を、こういう魔術にこめてこちら側に届けられていると感じる。もう拒否はできない。


なお、まごしろうという人は、辻さんの曽祖父に当たる実在の人物だとはじめて知った。しかしそういう事実とは関わりなく、まごしろうさんはやさしい心を持ち、励ましてくれる人物として自分の胸の内にすでに住んでいる。

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今回の名古屋訪問で、市内に在住の旧友の堀場康一さんと話しをすることができた。彼も詩を書き続けて30年くらいになるだろうか。懐かしい再会だった。