たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

夜をひとりで

娘は仲のよい友人と箱根の彫刻の森美術館に出掛けて今日は帰ってこない。家内は夕方、サークルの集まりだか何かで出掛けている。自分は、自宅にいて(あまり出掛けない方だ)、ひとりサボテンや多肉植物の植え替えをしている。土の乾きが悪くなったり、用土が砕けてミジンになり固くなった鉢から苗を抜いてみて、根の状態を確認する。用土と絡み付いている古い根と新根が離れないときは、水道栓のジェット流で根を洗い流す。すでに外が暗くなり、明かりをつけたハウスと洗い場の間を、引っこ抜いた苗を片手に持ちながら、暗がりの庭を何度も往復した。


歩きながら自分の中で声が響いている。声はたいてい、こんなことを問いかけてくる。
おまえはそんなことをやっていて幸せなのか。そんなことをやりたくて生きているのか。これから先、それを続けていても後悔しないのか。もっと大切なことがあるのではないか・・・
別に焦りがあるわけではない。淡々と作業をこなしながら、いろいろな思考が交錯して、自問自答しているだけだと思う。別の言い方をすれば、これは多分神の声というべき類だろうと思う。純粋に自分の声というわけではない。かといって誰か他の者の声でもない。


そしてこの声に対する正解は、あるようでいて本当はないのだと思う。言葉の解答はないのだと思う。言葉の解答は、答えを構成しないためであり、つまるところ、その問いかけを生きるしかないのだと思う。自分がなぜこのような運命なのですか、なぜ自分だけがこのような病気になったのですか、という問いかけに言葉の解答は似合わない。神の声が聞こえて、これこれの理由でおまえはその運命を受ける定めなのだと言われても、おそらく了解しました、納得しましたということはないだろう。問いかけは続き、どこまでも已むことはない。


その問いかけと一体になって生きていくしかないのだ。その運命の中でやっていくしかない。他の人々はすばらしい人生を享受していて、自分だけが特別なものを背負っていると考えること、そういう思考はある意味でとてもバランスを欠いていて変なのだ。そのことは、他の人間がそのような考え方をしていたとするなら、そのおかしさは理解できると思う。みな同じように生まれ同じように生きている。そこに特別な差別や区別をつけて、それにこだわり苦しむことはない。疑問が生まれても、これは頭の中で浮かぶゴミのような考えだと心得ておけばいい。


とまあ、ウダウダと考えるともなく考えて、一人の夜を過ごしている。今日はちょっと変な記事だなぁ。