生きる意味という問い
10代の頃から問いかけてきた『生きる意味』。そしていまも続く問い『なぜ生きるのか』。誰も答えない。誰も答えられない。投げ出された存在、実存。もっともらしい姿で生きているが、気が付いたら存在の家の中に投げ出されていたわけだ。
答えのないことを考え続けるのは不健康だと、心のケアを解説する本には書いてある。所詮堂々巡りになるのだから心のエネルギーを吸い取ってしまうと。たしかにそのとおりで答えの出る当てはない。
しかし徹底的に考えてみるのも悪くない。この問いの周辺にあるものに気づくという面もある。また問いの構造に気づくこともある。むしろこちらの方が問いそのものよりも重要かもしれない。
椎名 麟三という作家の『生きる意味』という随筆があったように思う。何か答えがすっきり出てくるのじゃないかと最後のページまで期待して読んだが、問いの回りを廻ったまま、とうとう答えはなかったと失望した記憶がある。
回っている独楽がその回転を止めるとき倒れてしまう。その回転することの意味を問いかけてみても、しかたない。なぜ生きるのかを問い続けても、自分が現に生きているわけだからそれは済んだことでもある。どこかそんなすれ違いというのか肩透かしというのか、ヘンなところがある。