たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

優越と劣等

先日から、優越感がいかに人生を支配し、思わぬところへ人を導いてしまうかを考えている。優越することを人はなぜ、これほどまで執拗に求めるのか。価値を置いてしまうのか。その理由をほとんど考えたことがない。なぜならそれは問うまでもなく自明なことだからだ。


もの心ついて、気がつけば自分は競争の中にいる。生存に関わるという感覚はなくても、友人より、あるいはクラスメートより勝ち優越することを目標として受け入れてしまう。やがてそれが生存競争なのだと教え込まれてしまう。学校、大学で競争し、会社に入っても競争し、人より抜きん出ることを人生観の基本要素として組み込んでしまう。


しかし考えれば考えるほど、自分と人を比較して自分が優越しているというその根拠が、実はハッキリしないのだ。テストの点数が高かったから優越すると言えるのか、人より先に出世したからそのように言えるのか、人より理解力があって頭がよいから優越していると言えるのか。
それで?優越したからまずは一安心なのか。人生は安泰となったのか。


優越とは、劣等と見なされなかったという安堵感に過ぎないのではないかと思えて仕方ない。つまり優越と劣等はひとつのコインの表と裏で、コインを弾くたびにその関係は反転する。劣等感を持つことと優越感を持つこととは、実は根は同じである。自己と他者を区別し、自分は他とはちがうと考える思いがその根にある。


で、皮肉なことにどちらに転んでも、本当の安心は生まれてこない。比較する相手がいるからこそ、そこに関係が生まれる。その関係において優越することに人生の価値を託そうとする限り、相手に依存している人生にしかならない。相手が変われば、自分の価値も崩れてしまう。たとえば定年になり比較する相手すらいなくなったら、自分の人生もその瞬間に失なわれ霧散してしまう。


たぶんそのような考えは歪んだ、完結しない考え方だ。孤立した哀れな人生ともいえる。一方、ともに命を与えられてそのことをともに喜べる人生がある。孤立でなく自立。自分と人とのちがいを探すのでなく、人を人として認め合えるそんな人生がある。