たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

つぶやき

「理解できるようになる」ということは、ほんとうに時間を要するものだと思います。しかも理解度と一言でいっても、その人の人生経験と考察が背景にあります。深さは千差万別。口にする人ごとに深さはちがっているといっていいでしょう。「わかった、わかった」と軽々しく言う子供が、じつは本質がわかっていないというのに似ています。


したがって、この手の話は、ほとんど会話が成り立ちません。会話するもの同士のレベルが異なれば、空回りしているだけです。わかった気になっている側と、ヤレヤレと思っている側がいるということです。話し合えばわかると簡単に口にする人がいますが、言葉では理解できないことはたくさんあります。眼には見えていても心で観るレベルがさらに無限にあって、そのようなギャップが会話に中に介在していると、言葉を費やすだけ不毛です。


そんな食い違いが端的に現れているのが、禅の公案で問われるいくつかの問答であると理解しています。禅匠と弟子は同じものを前にして、まったく異なる心境で向かい合っています。言葉を発すればますます誤解を生むだけ。言葉を超えた世界を露にするために、禅匠は時として激しく叱責、時として殴打という手段を用いたのであろうと理解しています。どれだけ老師が親切かつ適切な接し方をしてくれたのかを、後年になって弟子がようやく理解するのです。人生の階段を、「理解」がゆっくり登っていく構造になっていると思っています。



2010年5月 長野県安曇野わさび農場