たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

心で反芻している

絵を描くときに「できるとは、何だろう?」とよく自問します。プロが使う道具をそろえ、紙なども準備して、自分の腕と頭を除けば、すべて条件が整っているのに、憧れの画家のようには描けないし、プロのようにはなりません。そこにはどんな要素が必要なのか、あるいはどんな要素を除くべきなのか。考えるほど不思議なことです。


いつものように描きはじめて、いつものように進めていきますが、そこにほとんど変化はありません。同じことを繰り返しているだけになるのです。上達するためならば、今までの自分と変わっていなければならないのに・・・


いつものようにするのが、安心だからでしょうか。楽だからでしょうか。あるいは既存の道ができてしまって、そこを踏み外すことを恐れているからなのか。


水彩画を始めて間もない方の絵を見る機会があります。いろいろと講釈を述べる方もいます。これはどこを描いたとか、こうしたくて描いたとか・・・でも不要なのです。そのような説明は。絵を見れば、何を恐れているか、何ができていないのかがが明白なのです。なぜ色が充分乗っていないのか、なぜこんな線を描いているのかなどいろいろと感じるわけですが、その背景にあるのはたいてい失敗に対する恐れに近いものです。それを言い訳して講釈となるのです。


自分で自分の手を、あるいは頭を縛っています。だから自分が感じている適量を越えて、ドバッと絵の具を乗せることはできません。それをやろうと決意していても、やはりできません。ラフで自由な線をつかってのびのびと大胆なスケッチをすることは、なかなかできません。それは手や頭がそうさせまいと縛っているからです。


できるようになるには、この自分がはめている「タガ」を外すことが必要になります。自分との闘いなんです。そして人間はガラッとは変わりにくい。薄皮をはぐように、つらい思いをしながら一枚一枚縛っているものを外していくしかないのです。


このような事情はあらゆる習い事やスポーツにおいて同様かもしれないと感じています。



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