たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

屈託のなさ

屈託のない姿勢を身につけるにはどのようにするのだろう。天性のものだろうか。いやいやそんな素朴な理由だけで、長い人生を屈託なく生きることなどできない。普通に世間的に考えれば、本人にとってとんでもない不幸な出来事を、いや違うのだとサラリと言ってのける強さは、長い試練の中で培われるものだと思う。


そんなことを思い巡らす言葉を見つけた。

神経をすり減らす職業であるプロゴルファー。アメリカの代表的プロの中で屈託のなさでナンバー・ワンはトレビノであろう。
そのトレビノは、稚い時、父親が蒸発してしまった。成長した後、トレビノがあらためて母親に父蒸発の理由を訊くと、母親の答えがふるっていた。
「クリーニング屋へ行ったまま、まだ帰ってこないのよ」
そのまま二十三年間帰ってこないというわけで、そのときトレビノは、抱えていて行った洗濯物はどうなったかを、まず心配したという。
冗談好きのトレビノの言葉ではあるが、それにしても、この母にしてこの子あり、という気がする。


城山三郎著『人生の流儀』PHP研究所刊 −屈託なく生きる− p.143


しかしよく読み返すと、父親が持っていった洗濯物はどうしたのだろう、捨ててしまったのだろうかと心配したところは、妙にリアルで単に冗談を言っているわけではないかもしれない。
目の前で重大な事態が進行しているのに、その重大さをうまく受け止めることができずに瑣末なことがらばかりが頭に思い浮かぶということはよくある。
激しく叱責を受けているのに、何となく興奮している上司の鼻毛が気になって見つめてしまったりする。あとで思い返すとその映像ばかり回想される。


そういう理不尽でよく理解ができず、見通しのきかない人生に翻弄されている自分を、一歩退いた地点で眺めている、そればかりかそんな自分をを笑い飛ばすという姿勢が、屈託のなさの本質かもしれないな。



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