たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

これも人生の杖の書かな

最近入手した本で、やはり人生の杖として傍らに置いている本は、曽野綾子さんの言葉を集めた「幸福録」。その表題はちょっと長いのだが、『ないものを数えず、あるものを数えて生きていく』祥伝社文庫(2008年9月刊)。
曽野さんの本は、ウツに関する言葉を集めた書籍を以前より読んできたので、思わず購入した次第。


まえがきからして、サラリと人生の本質的なことを述べておられる。

幸福を感じるのは、不幸を感じるのと同じくらいの感性が必要だ。そして私の体験では、深く幸福を感じる人はまた、強く悲しみも感じる。一見反対に見えるその感情の滋味は、どこかで繋がっているようである。
印象派の絵描きが、暗い陰影なしに光を描くことはできないのと同じに、幸福もまた不幸の認識なしには到達し得ないものである。幸福を、金銭的裕福、健康、家族の安泰、出世、人間関係のよさ、などからだけ到達しようと思ったら、おそらく失敗に終る。

曽野綾子著『ないものを数えず、あるものを数えて生きていく』祥伝社文庫。
まえがき p.4

幸福を感じる感性は、不幸を感じる感性とじつは同じなのだというパラドックスにも聞こえる本当のことがら。不幸も幸福も、同じ価値基準でとらえた高低差に過ぎないということになるのだろうか。あるいは裏返しになっているだけだと。


次の言葉も、陰影が深い。

平和は善人の間には生まれない、とあるカソリックの司祭が説教のときに語った。しかし悪人の間には平和が可能だという。それは人間が自分の中に十分に悪の部分を認識したときだけ、謙虚にもなり、相手の心も読め、用心をし、簡単には怒らずとがめず、結果として辛うじて平和が保たれるという図式になるからだろう。つまり、そのような不純さの中で、初めて人間は幼児ではなく、真の大人になるのだが、日本人はそういう教育を全く行ってこなかったのである。


同著 「哀しさ優しさ香しさ」 p.124


幼児性に関しては、他所でも触れているが、その特徴としては、All or Nothing。よいか悪いか、あるか無いか、その中間の曖昧な部分の存在意義を認めない。あるいは認識できないと言っていい。


自分にとって得なのか損なのか、それにしか関心を持たずに生きているのだろうな、と感じる人はよくいるものだ。損だとわかると最大限の自己主張する姿勢は、非常に明快といえば明快だが、平和に付き合うにはとても厄介な人物でもある。なにせ妥協が無いのだから、勝った負けたの世界に終始する。中間の妥協策を持っていっても、そんな価値観が無いのだから取り付く島が無い。説得は失敗に終る。


大病をするか牢獄に繋がれたことがなければ人間は大成しない、と言ったのは、誰だったろうか。


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