偶然だろうか
この前の記事で藤川さんの詩画集『やわらかまっすぐ』のことに触れた。奥付けをみて藤川さんの書かれた本を以前書店で、いくども手にしながら買いそびれていたことに気づいた。それは妻を末期癌で亡くす『君を失って、言葉が生まれた』という物語だった。
なぜ、いく度も手にするほど惹かれたのか。それは田雑芳一さんという方の魅力的な挿絵に見惚れたからだ。こんな風に描けたらいいな。色鉛筆で少ない色数で、ザクザクと。
しかしなぜ買わなかったのか。物語があまりに悲しくて痛々しい。たぶんそれに尽きる。
でも不思議な縁だなとも思う。どうも引きつけられているような気もする。それで、やはり買うことにして先日入手した。でもまだ読む気になれない。読む気になる日まで大切に本棚に。
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中央線三鷹駅から南へ少し歩いたところに、上々堂という名の知れた古書店があって、そこで以前『生活のささえ』という仏典解説のような小冊子を買った。三千院門跡法務教学部というところが発行していて、たぶんお寺の布教用の小冊子なんだろうと思う。105円。でもかの鈴木大拙が推薦文を書いているくらいだからいい加減なものではない。
ときどきパラパラと眺めることが多い。今日はこんな言葉に、ちょっと引っ掛かった。
求めてうることができない苦しみがあり、
それを得れば人にとられぬようにといらだつ苦しみがあり、
又それを失えば気の狂うような苦しみもおそう。
人は欲のために争い、欲のためにたたかう。
p.100
欲をベースに生きれば心休まることはなく、平静な生活は訪れることはないことを、いろいろなたとえで諭しているのだけれど、こんな短い言葉で人の世を言い尽くしていることが驚きだ。ボクたちの生活の中で起きる多種多様で雑多な事柄を、縮めて縮めて短い言葉に煮詰めると、こんな風にくくられてしまう。なんとあっけないことか。
欲の根底には我があり我の根底には無明があるという原因と結果の連鎖が横たわる。