たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

目覚めると・・・

目覚めると今日の用事はなにがあったかと、スケジュール表のパターンをまぶたの裏に描き出そうとする。重要な用件がないならば、今日は幸せなんだろうかと、これから起きると予想される事柄を想像しようとする。あるいは不幸せなんだろうか?何をもって幸せと決めるのだろうかなどど、考えは止まない。
自分の生活。なぜこんな生活を送っているのか。その理由には様々な要因や偶然がが複雑に絡んでいて見通すことはできない。ただこの現実が目の前にあるだけだ。最も成功した人たちの生活と比較すれば、自分の生活はいかにも劣っていて貧しくて、そして地味だ。しかし最下層で生きている人びとの姿を知ると、それよりはマシな生活を送らせてもらっている。あるいは大病を患らい病魔と闘っている人たちを知れば、今の健康体をありがたいと思う。今の生活は幸せと言えるのか。あるいは不幸せ?この比較するアングルからいくら考えてみても答えは出てこない。比較するには相手が必要だ。では何と比較するのか、誰と比較する?どこまでも相対的な世界で考え続けるならば、定まった答えは出てこない。


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「人身受けがたし、すでに受く」という言葉がある。三帰依文という仏教徒が唱える感謝の意を表す呪文のようなもの。自分は虫けらやけものに生まれる運命だったかもしれない。それがなにかの縁や働きで人間として生まれた。そのことを常に思い起こすことを促がす感謝の文章だ。キミは来世はミミズになるんだよ。そちらのキミは空を飛び続けるスズメに。ごうごうと運命が決まっていく神秘のその現場に居合わせたら、実感としてこのことを感じるだろう。


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どうもボクたちの生活はいつもあわただしく、そのあわただしさを是認しているようにも思える。ゆっくりすることを罪悪視しているようなフシがある。じっくりと自分の人生がなぜこうなっているのかを考えることをしない。いまの自分はいったい誰なのだろう。キミはどこからやって来てどこへ走りぬけようとしているのか。家族はどのようにして出会い、愛し合い、そして別れていくのか。この命とは何か。永遠の時の中を、命の網の目は連綿としてどこから連なり始めて、どこへ行くのだろうか。宇宙の闇は沈黙したままだ。古代の男たちそして女たちも、天を仰いでは同じことを思考したに違いない。また、これからも数知れず同じ思考が繰り返されるだろう。




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