たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

頭の種別 その2

引き続き、植島啓司さんの『「頭がよい」って何だろう』にまつわる思いをダラダラと。結局、当初の予想に反してこの本は、まだ読み進み中。パズルを中心軸にして描き出された頭の種別について、ますます深い共感を覚えつつ、頭を悩ませながらパズルを解き進んでいる。


しかしこんな風にもったいぶって書くのは、ちりばめられた素敵な言葉に出会うから。

だが、ここであらためてちょっと考え直してみて欲しい。われわれにとって物事を自由に考えることほど難しいことはないのではないか?
p.101


思っていた以上にボクたちは「自由には考えていない」という事実に直面した経験のある人しか、こんな言葉は吐けないだろう。ちょっと皮肉っぽい言い方をすれば、気づかない人はけっこう自分たちは自由に考えていると信じて疑わないし、そのこと自体考えたことも意識したこともないかもしれない。それに反して、このことに気づいている人は自分たちは自由には考えていないと分かっているし、自分自身を疑っている。どこまで自由でありえているか計測することすら難しいと考えている。


せめて難問パズルを解く過程において、自由に考えることの飛躍の意味を例示することくらいしかできない。


たぶんこのことは、ボクたちの脳の機能や働き方の論理構造から来ている。進化をとげつつ機能拡大してきた人類の脳という稀有な存在である脳。本質的に脳の機能にまとわり着いている癖、脳の生理なんだ。


アインシュタインの研究ノートに記された内容について見られるある特殊な傾向について触れている。これも本当にそうだろうな。

彼のノートを詳細に検討してみると、そこには、通常と違った思考回路の存在が見てとれる。それは多くの天才たちにも共通していることかもしれない。決してつねに物事を論理的に捉えようとしない姿勢というのだろうか。あるいは幼児性というべきものか。

アインシュタイン自信も、自分が特殊相対性理論などを着想できたのは、知的発達が遅かったからだと、認めている。子供でなければ考えないような問題を大人になって考え続けたことが逆によかったというのである。
p.104

知ってしまったことが積み重なり知恵となって分別がつき大人になるということは、別の側面からいえば、脳の機能の制約であり機能の縮小でありゆるやかな脳死ということを意味している。


どうだろう、ボクたちは成人して大人になるほど本なんか読めなくなるし、せいぜい週刊誌くらい。目覚めていてもTVを受動的に見つけていることで休日を過ごす。まして中高年になって受験勉強なんて全くできないといっていいだろうと思う。一日に5時間も6時間も同じ参考書を読み続けるなんて悲鳴をあげるんじゃないか。そんな頭の体力、忍耐力が果たしてあるだろうか。それは酷というものだ。