たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

頭の種別

植島さんのパズルの本には、ご自身の知性のあり方を振り返る記述があって、これまた面白い。お断りしておくが、この記述を面白いと感じる人は世の中で少数派であろうということ、それに面白く感ずる人は植島さんと同じ頭の種別に分類されると断定していいだろうと思う。むろんこのボクも同じ種別に属することがわかった。

(1)ゲームやパズルやトリックが好きというのはひとつの能力なのかもしれない。
(2)とにかく競争とか勝負が好きだった。いわゆる負けず嫌い。
(3)さらに、空想癖が強くて、人の話を落ちついて聞いていられなかった(いまでいうADHD注意欠陥多動性障害かも)のも、必ずしもマイナスの要因ではないだろう。

植島啓司著『「頭がよい」って何だろう』集英社新書p.32

3番目のADHDに関する記述には、とくに注目した。なぜならボク自身どこか普通人とは違う自分を子供時代から感じ続けていて、ひょっとしたら多動性障害なんじゃないかと疑ってきたからだ。しかし植島さんは著書の中で堂々とそのことを書かれている。かつこれは能力のひとつなんだとスポットライトを当てている。


この3番目の記述に関しては解説がある。

さらに、「(3) 他人の話を時系列で聞くのが不得意」(これは現在でも変わらず)ということは、よくいえば、イメージからイメージへと結びつける別の特殊な能力があるということかもしれない。教室で落ちつかなかったり、すぐに授業とは違うことを考えたりするのは、必ずしも悪いことばかりではない。
同p.36

黒柳徹子さんが著してベストセラーになった『窓ぎわのトットちゃん』。
ここに記載されているトットちゃんが小学校を退学になってしまう事件も、この頭の種別に属するがためであるというような記述もある。

物事を時系列で直線的に理解するのとは別に、いくつものイメージを自由自在に結びつける能力も、きわめて重要な創造的能力のひとつ。しかし、これほど理解されない能力もないだろう。
同p.37

そのとおりで、学校教育現場にいる硬直化した先生たちにとって、これほど理解しにくい、あつかいの難しい子供たちもないだろう。先生の話はおとなしく聞かないし、すぐほかのことを始めてしまうし、いわゆる問題児として扱われてしまう。

しかし、頭の種別が異なる人種が他にも存在することを理解し受容する先生であったなら、このような子供たちはどれだけ救われることだろうと思う。自分がそうであったように、人と同じように行動できないことを責められたり、自分自身の価値に付いて自分で卑下する方へ追いやられたり、その結果自分自身で劣等感に悩み苛まれるようなことがらはなかったはずである。そんな悩みが、いったい全体始めからほんとうに必要だったのだろうか。