たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

人生の時間の長さってなんだろう?

「サイズの生物学」という切り口で、サイズの異なる動物における寿命や心周期、呼吸周期の違いを解析するというユニークな説を唱えられている本川達雄先生という方がいる。『ゾウの時間、ネズミの時間』という本がベストセラーになったことがあるので、ご存知の方もおられるかもしれない。体重の1/4乗に比例する形で限界寿命が計算されるという説みたいだ。ご本人による解説(ゾウの時間、ネズミの時間、運動の時間)もある。また異説(ˆÙàuƒ]ƒE‚ÌŽžŠÔ@ƒlƒYƒ~‚ÌŽžŠÔv)を唱えられる方もおられるようだ。


でも法則の詳細や例外などのズレには、学会の議論のようになってしまうし、このエントリ記事の趣旨とするつもりはない。それに、あまり詳細に議論するほど自分が知っているわけでもない。面白いなと感じているのは、ちょっと別の観点からだ。


要点は、小さな動物では心周期も呼吸周期も速く、そして寿命も短いという傾向を示すということだが、同じ《物理的》時間を共有していても、小動物の生命時計の文字盤は12時間表示ではなく、15時間になっていたり24時間の表示と細かく刻まれている感じになる。犬の時間は人間の7倍速く進んでいくという説があるけれどあんな感じ。つまり与えられた生命時間の総量はどんな動物でも同じなのだが、小さな動物はそれを速く使って消費していくし、ゾウのような大きな動物はゆっくりと使っていくという風にも受け取れる。命は平等な量を頂くのだけれど、使い方に違いがあってそれぞれ寿命も異なってくると見てもよいことになる。


ここで、やや強引な連想へ飛ぶ(たいていボクは強引な結びつけをしてしまう)。心の中で感じる充実感という感覚に関しても同じことがいえるのではないかなぁ・・・と思うのだ。長く生きて来たという人生の実感、人生経験の蓄積感というのかな。生きたぞという充足感を生むその量には、やはり一定の値が与えられていて、人それぞれのペースで使っていくのかな、という思いだ。


いろいろな冒険をして波乱万丈の人生を送る人というのは、人生という総量の消費速度が速くて、短時間に一生分の経験をしてしまうというようなことがあると思う。よく言う、太く短く生きるというタイプ。小さな動物が大きな動物と比べ速い時間の流れの中で生命を生きていき、早々に人生を味わいつくしてしまうような感じがする。そして人生の幕引きのときに、もう十分生きたという自覚をで持つようになるのではと思う。
一方、平凡で静かな人生を送る人は、一方時間の流れがゆっくりとしていて、長生きになる傾向にあるのではないか。一生分の経験をするためにはより多くの時間を要するという気がする。


心の充実感にも総量があってこれを速く使ってしまうか、ゆっくり使っていくか、そんなちがいだけなんだろうか。総量をほぼ使い果たすと、不思議と充実感があたえられるのではないだろうか、と勝手な想像をする。


こころに思い浮かぶのは、二つの書籍。人生の充実感に関係し、それぞれに思いが絡んでくる言葉が載っている。
一つ目は、ネイティブ・アメリカン(インディアン)のことばを集めた『今日は死ぬのにもってこいの日』
もう一つは、曽野綾子さんの最近の著作『うつを見つめる言葉』に出てくる次の言葉。「ほんとうはもし私たちが死ぬことができないとなったら、大変なことなのだが、その恐怖は考えずにいつまでも生きていたい、と願う」p.134