たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

生活とはアディクションの集積なのか

先日の週末から連休に入った。以前から気がかりだった横須賀の実家の状況を、家内と見てきた。物忘れがひどくなった母と、急遽入院してしまった妹、その間で奮闘している父の状況を覗いてくること、それに家の中の散らかったゴミなどを片づけて来ようという旅だった。


これまでは、娘たちを車に乗せて、孫の顔を見せに行くという実家帰りが常だった。今回はその娘たちはすでに成人して、ともに勤労日のため家内と二人で車を走らせた。子供たちを連れて行かない分、賑やかさはない。まあ気楽なドライブともいえる。到着してみると、思いのほか実家にいる家族は元気だったので、食事の手伝いや、買出し、それに家の片付けや台所や洗面所の床掃除やらをいくつかこなして昨日駒ケ根に戻った。


生活とは、個人ひとりひとりの固有のクセの集積体なんだろうな、という感慨が残った。父は昔から漬物類が無類に好きだったが、その性癖が強まったというか、毎度の食事時に漬物の入った小さなタッパウエアを十も二十も食卓に並べる。食器棚には同じ類の空容器が準備され、それらが大きな容器に入り、棚に収納されていた。つまり容器の入った容器が棚に収納され積まれている。一つの生活習慣が便利だったり、その効果を認めるや、その路線をトコトン推し進めるという傾向はよく見られるものだ。容器のアディクション(嗜癖)と言えなくもない。


家内の母が一人暮らししていた築30年くらいの古い家を取り壊すときも、同じような感想を抱いたことを、ふと思い出した。タンスの中身の整理を手伝ったのだが、引き出しの隅のほうにチリ紙に包んだ小銭類がいくつも出てきた。タンスというタンスの引き出しから、それぞれチリ紙の小銭が出てきて、それらを集めるとかなりの金額になった。本人はそんなことはとっくに忘れている。ちょっとあまった小銭を、ちょっとしまって置く習慣が身について、何十年と繰り返して来たに違いない。その累積に、初めてその場に立ち会う人間には驚きを禁じえないわけだが、それは単に生活習慣の集積であって本来それほど驚くべき種類のものではないのだ。


おそらく生活習慣というのは、あるときから始まって、それが効果があることが判るにつれて、個人の中で固定化し「しきたり」となり、やがて当たり前の常識になるのだろうと思う。他人にとって多少奇異なアディクションのように見えても、本人にとっては重要な知恵である。


こう言っている私自身の生活習慣というものも、それらと同類であろうと思う。自分の住み慣れた住居を整理するような事態がいずれ何年か後にやってくるのだろうが、その場に居合わせた人間が、まあ良くぞここまでやったもんだと感嘆するような事柄がいくつも出てくることだろう。とりあえず、家が潰れるほど買い込んだ本の整理に閉口することであろう。よくぞここまで買い集めたねと言われることだろう。
それにサボテン鉢にしても増えることはあっても減ることはないわけだから、最後はアディクションの様を誰かにさらけ出す事態になることは間違いない。