たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

与えられたもの、そしていただくもの

目いっぱい、自分の領分を確保し自分の余裕を取ってから、
仕事をする男がいる。自分の領土を脅かされそうな場面では必死だ。
たとえば自分の仕事が増えてしまうかも知れない分担決めの綱引きの場面で。


期限付きの仕事ならば、仕事をするのを期限いっぱいまで引き延ばす。
あるいはすぐできる内容でも、期限まで放っておく。


こうして与えられた条件を、いっぱいまで使い切ってしまう。
自分に与えられたものを独り占めしてしまう。
本当は、全部自分では使い切る必要はなかったものだ。


その余裕を、あるいはその時間を、人に提供すれば喜ばれる。
人を喜ばすことを必要なしと見ているのだろうか、それはわからない。
人は自分のできる範囲で、人のために尽くしてもいいとボクは考える。
無理をしなくていい。
使いきらなかった余裕を差し出すだけでいいのだと思う。
やがて心が通じて多少の努力をすることもあるだろう。


その男・・・
人は自ら使い切らなかった余裕を、やがて彼にあげることはなくなるであろう。
与えられたものを、全部自分のものと見なす視線の卑しさに気づいて。
いただき物を自分のものと見なして独り占めするのは、
自我の芽生え始めた幼児の幼さだ。


行商から身を起こし、一流企業に育て上げたある経営者の信条を、
若い頃ボクはとても尊く感じ真似をした。
いや今でも自分の生活のバックボーンにさせていただいている。
与えられたものを、最小限に使わせていただくという信条なのだ。


その経営者は、ホテルに泊まってもタオルや歯ブラシは自前の物を持参して、
できるだけ使わずに済ませると記している。
使わすに済ませられるなら、それは余裕となって誰かの手に渡る。
その余裕によって誰かが救われることもあるだろう。


与えられたものは、自分の作り出したものではない。頂き物である。
そもそも独自に独力で作り出したものなど、この世にあるのだろうか。
自分のものと思うこと自体、大きな錯覚なのではないだろうか。
誰もが何にも持たずに生まれてきたはずである。