たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

うかつだった

世の中には、自分の優越感だけが表出し、それを巡って人生観が構築されている人物が、
現実に居るのだと痛感した。そんなステロタイプの人物は、ドストエフスキーの小説にしか
居ないのではないかと考えていたのは、うかつなことだった。
その人物が客観的に優れた能力を持っているのかどうかは知らない。
それを証明できる一元的尺度がこの世にあるとも思えない。


しかしながら、それを当然のごとくアプリオリのこととして、対人関係を組み立てて生きていること、
つまりは自分は選民(=エリート)なのだという姿勢で他にのぞんでいる人物が居るわけなのだ。
自分は選民でありたいと考えるのは自由だが、そうであると考えるのは誤謬である。
優越感を持つのは勝手なことだが、優越していると考えるのは余りにも短絡的である。
優越したいという感情や、優越していると思う感情は存在するが、
優越するという客観的事実とは一体どのような内容のものだろう。


たいていの場合、相手の間違いを認めたとき人は優越した感情を抱く。
相手は気づいていない過ちを、自分は知っていることで自分は一歩先に行っていると
錯覚するわけである。いわば全知全能の神の座に自分のほうが近いのだという感情である。
しかしそれが何の役目を果たすというのだろう。
それを維持することだけが目的である感情のあり方とは、何なのだろう。