知について
頭がよいと人を評価するとき、通常はいい大学を出たとか、
難しい試験を突破したとかの際に使われるのが普通だ。
たしかに勉強を重ねなければ解けない問題に正解を出すのだから、
問題を解く高い知性があったことは間違いない。
しかし、この種類の知性は、与えられ正しいとされた知識の体系の中で、
そこから演繹される結論を導く作業だ。努力して知識の体系を勉強し、
重要な公式を暗記してしまえば、あとは論理を追って結論を出せばいい。
記憶力と論理に従い結論を導く能力が問われるだけである。
科学的な知とでも言おうか。そして、このような知のあり方は、
決して自分自身を問題にはしない。
常々、知性には2通りの意味があると考えているが、もう一つの知性とは、
自分自身を問題の中に含む構造にあって試される知である。
対象として自分自身を含むので、自己が分裂している。
自分と自分がいつも対話しているような状況で問われる知だ。
自分を含むため、与えられた正解というものがなく、
答えを独自に導き、自分自身でよしとしなければならない。
勇気や情熱、信仰のようなものが全て関連してくる。
経験による成熟という側面もある。疑問を呈し苦闘して答えを導き納得する
というプロセスを通してしか、知が成長しない。
そのことがわかることに極めて長い時間を要する。
だからこのような知に関しては、年齢を重ねるほど深まりを見せるはずである。