たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

変容

なんだか慌ただしい、この頃。
BLOGの更新もこのところサボっていて、書く意欲が沸いてこないというか、従来のスタンスで書けば書けるのだけれど、書いたところで一体ナンボのものなんだろうと考えてしまい、そこでついえてしまう。精神的な行動エネルギーというのは、マンネリの中では生まれない。脳細胞がワクワクするような状況下にないと、新しいアイデアも行動意欲も出てこないものである。まして淡々とルーチンワークをこなすような状態は自分の体質には相容れないことは自覚している。


先日レイモンド・カーバーのデビュー時代の短編小説を読み始めた。
なんだか、気持ちがザワザワして落ち着かない気分にさせられる。何かが起きそうだが、後になってみれば何も起きていなかったという、日々の日常の中で体験してきたこの世界の肌触りをうまく描いているなと思う。で、そんな小説に魅力を感じている自分というのは、まぎれなくこの現代の空気というか状況のなかに生きているんだと思った。大事件がおきてそれを主軸に世界がグルグル回っていき、自分も大なり小なりそのトルネードの端っこに巻き込まれていくという、そんな古典的な世界観はなくなってしまった、という感覚なのだ。


カーバーの小説は村上春樹さんが翻訳したものだが、じつはカーバーの作品に初めて触れたわけではなかった。以前古本屋さんでカーバーの詩集を見つけ気にかかり買ってしまった。正直なところ個人的な感想では、カーバーの描こうとしている世界は詩より小説が向いているように感じる。


久しぶりにBLOGを書き始めたのは、頭の中では古典的な世界観を持ち続けていながら、そしてその規範の中で反応して行動していながら、じつは直面している現実は、その古典的な世界観よりはもっと状況が進んでいる時代の空気の中にあることに、ぼんやり気づいてきたことがあると思う。そういう意味ではずいぶんとピンと外れの生き方をしてきたことになるのかもしれない。でも大部分の人々はそんな状態なのだから、べつに驚くことではない。あまりの情報の多さによって、ボクたちは単一のつぶよりの価値観とか人生観とかを抱く行為に対して、なんとなく位相のズレみたいなものを感じてしまうということなのだ。つまりは多様化してしまった世界の枠組みに直面し戸惑っているというべきだろうか。