たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

スーパーマーケットに付き合いながら

妻の食料品の買い出しに付き合ってスーパーに行った。スーパーまでの道のりを、なんとかドライブに見立てて、ハンドルを握る(握らされる)だけなのだが。そしてそれは毎週繰り返される特別なことではないのだが。


まっすぐ行けばすぐ着いてしまう道を、ワザワザ迂回し見晴らしのよい道を選んだりする。


スーパーにはモノが満ちあふれ、平和な日常が過ぎていくようなのだ。思い返すと子供のころはモノがなく、モノを所有することが生活の張り合いであり幸福であり目的であったように思う。おそらく両親も、そのまた隣人の大人たちも同じ価値観を持っていたのだろうと推察する。スーパーに車で出かけてまとめて買い物をすることは、豊かなアメリカ人のまぶしいばかりのライフスタイルだった。そのことを思い起こしながら、いま同じことを自分がしているのに余り感慨がない。すでにそのことは当たり前になってしまったようなのだ。


陳列棚をブラブラ眺めながら(買い物中は、じつにヒマなのだ)、モノは全て手に入っているのではないかと振り返る。欲しいものはなんなのだろう。ものではない、なにか精神的なあるいは形而上学的な何ものかを、必要としているのか。脈絡なく、英語教材だっていろいろなものに手を出してそのいくつかは購入しても、本当に必要なのはそれを徹底的に使いこなしてマスターすることなのだ、などと気づく。モノが手に入ったらあとはそれを有効に活用することなのだが、相変わらずモノを所有することに価値を置いている頑迷さに、いささかあきれる。人生をどうしたくて、その結果人生はどう流れていくのか、そんなことをもやもやと考えている日曜日。