たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

言葉というもの

今日たまたま(昨日というべきか)、アルゼンチンのナディアという少女を追ったTV番組を見た。何か見たい番組をねらってTVをつけることはほとんどない。この番組も途中から何気なく見た。
昨年度からシリーズで放送されている「もし世界が100人の村だったら」という番組の再放送らしい。ナディアは、8歳のとき姉とともに両親から捨てられた。13歳で出産、父親には逃げられる。乳飲み子を抱えて、職探しをするが仕事も得られず、食べるものも満足にはない。そんな状況の中で必要な栄養を与えられない10ヶ月の長男は栄養失調にかかり、このままの状況では脳に障害が出るだろうと医師から言われる。八方ふさがりの日々の中で、どうしたらいいのかと涙を手でぬぐう姿は、まだ子どものしぐさそのものだ。


貧困という言葉は誰でも理解できる。その人なりの見聞きした知識の範囲で、貧困さというものを内部で了解できる。しかし、経験していないことや知識として持ち得なかった範囲までは、向こう側にいる人間と同様な現実には立つことができない。それが言葉の限界であり現実というものなのだと教えられた。そういう意味ではこの番組は、貧困さに直面する子どもたちの現実の一端を伝え、自分の中の貧困という言葉の意味や具体的内容の肉付けを与えてくれたように思う。
フィリッピンで差別された村に住む子どもたち。毎日、都市から吐き出されるごみの丘の上を放浪して、使えそうなダンボールなどを拾い集め生計を立てている。子どもたちが生活苦、貧苦の中で今日もあえいでいる。100人の村の中で、20人がこのような日々の中で生活をしている。つまり5人に1人はこんな毎日を送る。貧困な国の貧困な子どもたちという言葉で了解した気になっている自分に槍を突きつけらている、そんなことを思い浮かべた。言葉というのは、なんと貧しいのだろう。


このナディアという少女の話から、なぜかわからないが聖書の中のイエスの癒しの場面を思った。貧しい人々や病に苦しむ人々が、イエスに言葉をかけられ、あるいは触れられれば癒されるという信仰を持ってイエスに近づくいくつかの章を。

二人の盲人が、「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんでください」と叫びながら、イエスについてきた。そしてイエスが家に入られると、盲人たちがみもとにきたので、彼らに「わたしにそれができると信じるか」と言われた。
マタイ9章27節

盲人のあわれむべき生活ぶりはなにも触れられていない。ただ、イエスについてきた、と記されている。伝えられた言葉とはこのようなものだ。ナディアのような生活ぶりや困窮ぶりが現実のものとして想像できてはじめて、聖書の文言やイエスの言葉が、意味を伴った言葉に変わり、生活に根付く理解が可能となると思った。理解することすら困難なことが世の中に数多くあり、自分は知らないことが数多くあるのだと自覚すること、そして少しでもそちらの世界を理解しようと努めること、まずはそこからなのだと。