たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

植物より出でていながら

植物は寛容な生き物だ。自己という個を意識することなく脈々とその命を、途絶えることなく鎖のようにつなげてきた。一年草という植物がある。春に蒔かれた種子は秋には開花して、結実する。草木一本を見れば、気候の暖かい夏の間の、あっという間の生命の姿で、その短い生涯の目的は、種子の形で遺伝子を後世に残せばよいのである。その種子にしても発芽するかどうかは環境しだい。子孫を残したのはいいが、それが育つ姿を親が見るわけでもない。


雑草はどこにでも生えてくるように思われるが、あれはもともと地面の土の中に無数の種子が混合させられているからだ。たまたま、表土に出てきた種子が、日差しを浴びて発芽条件を満たしたからに過ぎない。発芽しない埋もれたままの種子の数は、それこそ砂粒の数ほどあるのだろう。発芽条件が整わなくて何十年もそのチャンスをうかがっている種子もあるそうだから、土の中は種子だらけなのだ。


同じ生命といいながら、それと比較して、動物は何と奇異な生き方をしているのだろう。激しく移動できる活動性を手に入れた反面、日々食料を得るために汲々としてうろつきまわる。活動が活発なことから互いの衝突、争いが頻繁に起きて、自己や餌場を守るために自我というものを発展させた。そこから自己の消滅という現象を極度に回避する行動が生まれる。どんなことをしても生き延びるという命題が生まれる。死は敗北になってしまう。


植物と会話できたなら、語られる哲学はどれほど衝撃的なんだろうと思う。しかし植物は自己を意識する必要を持たなかった。切花にされ、狭い鉢に植えられ、水が切れて枯れ死しても、そこからは何の嘆きも聞かれないように見える。利己的な遺伝子という考え方があるが、それよりもはるかに覚りきった生命体だろうと感じる。この命の寛容さが、緑の魅力なんだろうかと思う。