たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

人身受け難し

いくら懸命に考察してみても、この自分という存在が自分であることの説明、理由、その根拠は明らかにはならない。気がついたら自分だったというのが正確な事態だと思われる。気がついたら自分は男性であり、この身体であり、この頭脳だったということだ。自分が自分のものであるという所有感は、その後生まれたもので、はじめはどこかからか受け取ったものである。所有することの根拠はあまりはっきりしているとは言えない。たまたま自分に与えられた幸運やら宝物は、シメシメと密かに思いながら、うまく行ったなと感じて自分のものにする。翌日には、自分で得たもの、自分の徳のなせる業くらいにみなしてすっかり自分の所有を正当化している。だから、これは自分のものであると宣言するとき、どこか恥ずかしい感じがある。それは自分が泥棒精神に立っていることをうすうす知っていることが本当の理由である。いつの間にか自分のものだと自らをも欺いている詐欺師みたいなものだ。


聖書には不幸や不運を嘆く貧しい人々が出てきて、なぜこのような災いをこの人々は(あるいは自分は)受けるのかとイエスに問いかける場面がある。人より劣る身体や病気を、なぜ受ける運命にあるのか、その根拠は何であるのか、それを問う。世の中の平均値を線引きしたとして、なぜある人々は(あるいは自分は)この平均値より劣っているのか、と。


しかしこの問いには答えがない。答えようがない。それはわからない。ただそういう運命を受け取ったという事実が足元にあるだけである。気づいたらそういうものを受け取っていた。いただいた。イエスは、それは神のみ業が現れるためであるという答えをしたと思う。この問答に、初めははぐらかしたような印象を持ったものだが、この答えはかなり正確で、誠実な答えではないだろうかとこのごろ思う。


人身受け難し、今すでに受く、で始まる三帰依文という文章。なんとなくピンと来ていなかったのだが、この言葉の意味と深さを最近しみじみと味わう。よくぞ人と生まれける、という表現もあったように思う。生まれなければ、どこまで行ってもゼロだ。そもそも何んにも始まらない。自分が人間であること自体が、ゼロと比べたら無限大の大きさ、幸運を内蔵している。無限大の幸運の大きさを当たり前のように見なして、人と比べて平均値より下だとか上だとか苦しんでいることが、どこかピント外れの世界の話で、つまりは泥棒根性まるだし状態なのではないだろうか、という風にすこし思えてくるのだ。


あと余命3ヶ月です、と宣告されてお先真っ暗になっている状態は、はじめのゼロに戻る恐怖とその不運の不当性、そして怒りに支配されているわけである。ここで初めて与えられた人生の絶対値というものに直面する。いままでこの絶対値という頂き物を考えたこともなかった。人と比べて相対的に小さいとか大きいとか、そんなことしか考えてこなかった。失うという事態に直面して絶対値に気づく。そのくらいショックがないとなかなか自覚できない。朝日の光の美しさや山々の緑の輝き、笑みを浮かべた子供たちの命のきらめき、生きていられるという幸運が、しみじみとわかって来る自覚。今いること自体が、ありがたいいただきものであったという自覚。普段は、それがわからぬくらい目が曇っていて、すべて当たり前で当然だという驕りがまかり通っているということなのだ。そして生活に退屈までしている。