たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

それはいったいなんだろう

宗教は阿片だという言葉がある。正常な判断力を惑わせて、奇妙な教義に人々を閉じ込めることを言ったものだと想像する。まともな人々がいて、一方不可解な宗教というものがあって、まともな人々が教義に囚われていく。その様子を見ている自分がいる。いわば自分を含めての三角関係。自分は一応、宗教とは独立した立場にあって、宗教を見ている。自分は宗教者ではないという前提で。宗教に対するこういう見方、考え方が世の中の主流なんだろうと思う。


そんなことを考えながら、全く違う立場に思いを馳せる。自分の中をずんずんと突き進んでいくと、自分でないものに突き当たってしまう。どう考えてもおかしい。しかしやはり何遍考えても、自分であるはずが、自分とは言えなくなってしまうものがある。自分の立っているところが、自分でないはずの大きな存在の中にあった、という発見から出発する立場。自分の操ってきた言葉や頼りにしてきた常識が、実にあやふやでいい加減で、どうでもよかったと気づく地点。なにも神とか仏とか出さなくとも、冷静に科学的に突き詰めていくといつかは不思議なものに突き当たってしまう。そんな考えがありうるのじゃないかと思う。これは宗教とはいえないかもしれないが、しかしかなり似ているものと言えるだろう。


たとえば自分の身体。自分の体だと思っている。でもそれは自分で生み出したものではない。気づいたらすでにスタートさせられていた。いろいろな遺伝子のセットを託されて。若い頃はどんどん成長する。自分で成長するプランを立案して大きくなるのではない。勝手に体が変化するのだ。それを自分で大きくなったと勘違いしている。すべて自分で生きていると思っている。でもそれはちがう。なんだか分からないが、自分の中に生きる意志が封じ込められていて、自然に呼吸をさせ鼓動を打たせ、新陳代謝を行っている。ここに自分の意志やコントロールは作用していない。気づいたらそうしていて、気づくと老化して、気づくと(?)死んでいる。それらを司っている大いなる意志のようなものを、当たり前と見なして、自分だと大雑把にくくってなんとなくわかった気になって生きているだけだ。いわばどこからか与えられた頂き物を、これは初めから自分のものだったと掠め取ったようなものだ。そしてこの辺になると科学技術で仕組みが究明できたとしても、それらを与えたものはなにかという疑問が出てくる。もう、科学の領域をはみ出ている。


そういう夢想を続けていくと、何が何だかわからなくなる。いわば精神がグチャグチャになり、世の中の正義と言うものがなんだったのか分からなくなり、自我というものが分からなくなる。おそらくこのことと同時に、なにものかに支えられていることが実感できるようになり、生き続けていられることが、めったにない稀なことに感じられるようになり、ありがたいと思うようになる。
宗教を自分の外に設定して眺めるのではなく、自分が囲まれていたんだと気づくところから再スタートするという考え方をする人々が確かにいるのだと思う。