たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

文章と図形

どんなことがらも脳を介さなければ、それを思い浮かべることができないのだから、全ては脳内現象、脳の中を走っているパルス列に帰着されるというのが、茂木健一郎さんの考えだった。


ボクはつねづね思うのだが、眼から入る情報を処理する脳と、耳から入る情報を処理する脳とはその働きが違うし、人により得意不得意があるように感じる。画像系のデータ処理と、時間系のデータ処理の能力と言ってもいいだろうと思う。前者は絵画や立体などの空間の把握、並列な情報の位置関係を処理する能力。後者は、時系列的な順序の決まっている情報、たとえば言語、文章の読み書き、音楽など、序列を持っている情報の処理能力である。


自分の子供時代は、言語処理能力が全くダメと言ってもいいくらいで、いまだに、この年齢になっても言語処理はダメか、あるいは人に遅れていると言う気がしている。眼をつむって耳だけから入る情報を、脳内で意味のある情報に再構築する能力にどこか欠けて、言語の語られる速さについていけない。もっと言えば、時系列の順序だてて整理しなければならない情報を、どこか空間把握する脳の方に送っているような気がしてしまう。


空間把握の脳の特徴は、並列に並んだものの位置関係を把握し、距離や配置を理解することだが、まあ言ってみれば次々とやってくる情報を、雑然とそこらに(たぶん脳の画像メモリのようなところに)放り出して並べておけばいいところがある。先にやってきた情報と、後からやってきた情報とを順序立てて、こちらが先とかこちらが後という風に、時間関係を記憶する必要はない。むしろ序列的な情報を落さない限り、空間内に画像として配置できない。
時系列にやってくるデータを、画像データとしてランダムに取り込んでしまうと、原因と結果の因果関係や、時間的に変化する情報を、うまく処理できず混乱がおきる気がするのだ。なぜなら原因も結果も並列に、同レベルで並んでしまうから、その中に含まれていた意味が消えてしまう。


自分の書くメモとか記録は、左側にイメージ図やスケッチが描かれて、その右側に説明の単語や文章が並ぶというパターンを持っていることに、あるとき気づいた。はじめに脳の中に思い浮かべるのは図形やイメージばかりで、それに注釈をつける形で言語が使用されているようなのだ。描きたいもの、表現したいものはその空間の広がりや仕組みなのだが、それを表すのはとても難しい。


ところが人のメモを見て驚いた。ほとんどの人は始めから徹頭徹尾、文章で記述し記録している。第一行目から、文章が始まるのである。絵などはほとんど添え物に近い。したがって、この人の頭の中には(大多数の人々は)まず文章という時系列データを脳内に思い浮かべていて、それを紙の上や画面の上に単に吐き出しているという印象を持ってしまう。


でも正直なところ、自分からするとそれはとても奇異な感じがする(本当は自分が奇異なのかもしれない)。記録やメモを作成するときに、文章が始めから決まっているなんて、とても変な気がするのだ。全部の材料が出尽くしていないのに、なぜ確定した文章が書けるのだろう。蜘蛛の糸が吐き出されるように、整理されて整然と文章が出てくることがとても不思議なのである。書いていて矛盾やおかしなところがいくらでもあるだろうに、という思いがしてしまうのだ。この感覚は、時系列データを画像データとして扱うことに慣れた自分だからなのだろうか。ちょっと不明だ。