たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

手を放すとき

これは個人的な経験から帰結されることなので、一般的に正しいのかは分からない。
なにかものごとに行き詰まり、いろいろとあがいて打開しようと努力しても上手くいかずに、半分諦め加減の心境になり執着がフッと抜けてしまうとき、事態の展開が生まれてくるような気がする。うまくやってやろうとか、こちら側の力の作用で向う側を変化させようとすることは、いわば壁に向かって一人相撲しているような状態で、押した分だけ押し返されてしまう。壁を押し倒して向う側に行きたいと頑張っている姿が思い浮かぶ。


緊急避難路にあるドアは、退避側に開くドアにするのが鉄則だ。火災や事故などでパニックになった人間にとって、ドアを押して逃げていくのが自然。手前に引いて開くドアにすべきではない。脳細胞が働かない状況にあっては、『押してもダメなら引いてみな』という冷静な判断はしにくい。
何かに行き詰った状態とは、結局のところ『押してもダメなドア』を、一所懸命押して開こうとしているのに似ている。握りしめた手を放すとか、執着を離れるとかは、それまで自分が格闘してきたフィールドのレベル(押すだけのレベル)を離れ、より高いレベル(押すことも引くことも自由なレベル)に判断を移すことになる。


このような経験をするたびに思うことがある。
事態打開に至った経緯なのだが、果たして向こうの事象が変化したためなのか、あるいは自分の側の何かが変化したためなのかが微妙なことだ。こちらの心境変化と向こうの事態打開が、たいていの場合、同時に起きるところを見ると、この二つの主観客観の区別はなくて、主客一体なのかもしれない。
茂木健一郎さんの基本テーゼである、『あらゆる現象は脳内に発生した事象に過ぎない』という立場に立てば、素朴に主客を分離して考える考えかたも結局のところ、脳の中のパルス列の解釈として主体と客体に分けていただけなのだから、つまりは同じ一つのものがあるだけということになる。
果たしてこの辺の事情はどうなっているのだろう?