たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

科学的な見地から

科学と宗教という対立的な見方を前提に論を進める話は多い。科学技術は進歩したが、宗教は古い教義に囚われて、世の中の進み具合に追いついていないのだと言う論説に関して、先日のBLOG記事に書いたばかりだ。
それは確かにそのとおりだと思う。しかし科学と宗教を対立的にとらえるのではなくて、実は常に共存しているのではないかという感覚が自分の中では強い。


科学技術の進歩により、物質は原子分子のつぶつぶで構成されていて、それらは元素という基本構成要素からなることが明らかになったとき、それではなぜこのような多様な元素があるのかが、次の課題になった。この多様性を説明しうるもっと基本構成要素があるのではないかと探求は進んだ。そして素粒子論が発展して、より単純な要素に要約されそうになると、ふたたび例外となる現象や粒子が発見されてふたたび多様性がたち現れる、というようなことを繰り返している。


おそらく人間の遺伝子がすべて解読されてしまっても、そのことで全てが分かったことにはならずに、謎は深まる一方ではないかなと思うのだ。人間のなぜという疑問は尽きない。科学技術で答えられる範囲の疑問ならば、それは科学技術に任せればいいと思う。しかし答えようのない疑問は山ほど出てくる。
自分はなぜここにいるのか?
自分の人生がこのようになったのは必然か?
自分だけがなぜこの運命を背負っているのか?
なぜ生命体は生まれてきたのか?
宇宙はなぜこのような形態を形成してきたのか?
生命の(あるいは自分の)生きるエネルギーを支えているものはなにか?
この多様性の世界を維持している根本の原理があるのではないか?
・・・・


科学で答えようのない疑問に対しては、ある仮説を立てて生きていく他はない。それが荒唐無稽に見えるものであっても、その人が納得できればそれは間違いだとはいえない。そして大多数の人間がその教義を受け入れるとき、宗教の原始的な形態が出てくるのだろうと思う。
過去の宗教の教義が古くなり、科学的な事実に反するような事態に陥っているにしても、宗教の生まれる成長点のような部分は、人間がいる限りなくなることはない。疑問を持つこと、なぜ?を発することが続く限り、次々とさまざまな考え方や仮説は生まれてくる余地はある。それは人間が生きるという現象と同義語だからだ。