たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

風景との対話

東京藝大名誉教授の三好二郎氏のエッセイを読む機会を得た。
「画家のまなざしの変容〜見ることと見えること〜」という表題にあるように、
見ることを通して芸術論を展開した、軽妙な文章である。
サラッと書かれていながら、本質をズバリ突き、とても惹かれてしまった。


風景画に触れている部分から。

・・・対話は人物とだけ行うものとは限りません
ものでも同じこと。スケッチブックをひろげなくとも、
描く対象と激しく対話しているかどうかが、
その人にとって大事なのです。
だから、わたしは絵をつくりたかったら、
「対話」しなさい、と申し上げます。
そして対話で見えてきた心を描く。
その意味で、絵描きというものは、
見えないものを描くのだといえます。


なによりうれしくなったのは、絵画は対話なのだという視点でとらえていることだ。
風景画でいえば、こちらが呼びかける。すると自然が呼びかけを返してくる。
この感覚がとても新鮮で感動的だと思う。
呼びかけの返って来ない風景やモノは、どんな頑張っても絵にできないし、絵にならない。
気力が出てこないといったらいいだろうか。


単に形を写せばよいというのなら、写真で充分です。
先にもお話したように、対象との対話があってこそ、
ようやく絵画作品となる、わたしはそう思います。
・・・
『睡蓮』を見ていると、モネはどれくらい睡蓮の池と
対話をかわしたのだろうと思います。


この『睡蓮』と『対話』で、ふとリャドを思い起こした。
リャドは、時代の流行なんか全く無視したかのように、
自らの描きたい水の風景を描き続けた天才画家だ。
惜しくも若くして亡くなってしまったけれど、
モネを超える絵画を描くべく、モネの絵を横において
自分の絵を描き続けたと聞いたことがある。
リャドは、水辺の風景と対話し、モネと対話をしていたのだろう。


絵描きは、美しさを忘れたときに行き詰まります。
美しさは、原点ではなくて基本なのです。


この言葉は難しい。
ただ絵に迷いが出て、方向が見出せなくなってしまっているとき、
ふっと美しさや感動を受け入れる心を思い起こす。
こんな瞬間に恵まれたとき、ふたたび描こうという
気力がみなぎってくる気がする。
一方的にこちらから風景を攻めていくような姿勢になるとき、
風景の呼びかけが聞けなくなり、絵は作為的になっていく。
やはり風景との対話を通して見えてきたものにこそ、
真実があるという気がする。