たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

生の時間

昨日、ひとり車を走らせて市内のホームセンターに行き、木材など内装材料を購入して帰路に着きました。ハンドルを握りながらずっと不思議な感覚にひたっていました。生きるためにはさまざまな課題やら宿題がのしかかって、あれをやらなければいけないとか、銀行にお金を振り込んでおかなければならないなど、バタバタしているのです。にもかかわらず、必死に生きてあがいているだけで充分幸福なんだという感覚です。それを「生で」実感したというのでしょうか。


なぜなんだろうと考えてみました。
お金を持つことが幸福の源泉ならば、お金がなくなったときとても惨めで不幸と感じます。地位を得ることに価値を置くならば、地位が得られなくなったとき自分の価値がなくなったように感じます。その人が何を大切に生きているかによって、自分の評価が変化してしまいます。つまり大切にしているもの次第だということです。人生においてお金は重要事項ではないと考える人は、貧乏でも平気です。しかしかつて大金持ちでそのことに自分の価値をおいていた人が、もし何かの失敗で無一文でスッテンテンになれば、とても苦しいでしょう。


不思議なのです。何を重要と考えるかは、その人の人生の積み重ねの年月でほぼ決定されています。その重要なもの次第で、人生の意味がコロコロと変わるというそんな簡単なものだろうか。それならばその重要なものを剥ぎ取ったあとには、人生には何も残らないのだろうか。果たして何にもなくなってしまうのだろうか。重要だった事柄は結果として得られなかったけれども、それでも自分は生きています。その残りものの人生のなかに、ほんとうに大切にしなければいけないものがいっぱいあるのではないでしょうか。人生で重要だと思っているものを剥ぎ取ったあとにこそ、本当の大切なものがあるような気がしているのです。


重要だといっているものは、じつはさほど重要ではなくて、もっと根源的に大切な事柄があるという感覚ですね。お金が重要と考える人は、たくさんのお金に囲まれている「将来の自分」が幸福であるとぼんやり思っています。ならば、たくさんのお金に囲まれて何でも買うことができ何でも手に入れることができるようになったとき、「自分」は変化するのだろうか。金持ちになったという人生の一条件により人間の幸福感が満たされて、これで達成!(一巻の終わり!)ということになるのでしょうか。金持ちになれるならばその方がいいに決っています。しかしそれで万事解決なのかというと、そうではないと強く思ったわけです。


昨日ハンドルを握りながら「いま生きていること」、この事実に優る重要なことはないのだという思いに浸っていたのです。生きているとは、生きることが許されているということになります。きっと不治の病で余命何ヶ月と宣告されていた状態から生還したとき、生きることが許されてあることの大切さを、しみじみと実感するでしょう。いや、人間はなんでも死亡率が100%だそうです。生きていられる時間がとても大切ということになりますね。




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