たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

古くて今も直面する問題

今から考えると想像のつかないことなのだが、若い頃の関心の中心は数学を勉強することにあった。数学の「美」にとりこになって、若い頃の自分はすっかりイカれていたのだ。オイラーの公式から始まって複素関数論にのめり、非ユークリッド幾何学からは数学基礎論へと進んで、無矛盾性だのなにやら狭い領域の論理学を熱心に勉強していた。


数学をいかに効率的に勉強するかに関しても、いつも悩みを持っていた。融通の利かない性格の自分は、「帰納法」というのが経験的で不純で好きではなかった。第一原理(公理)から、全てのことがらが「演繹的」に導かれることを好んだわけだ。勉強の仕方も自然と「演繹的」な方法で学ばなければならなかった。無駄なく必要で充分な内容にまとめられたテキストを求め、これを飛躍することなく1ページ目から読み進み、理解が順序良くいき、マスターするというのが理想なのだった。


ところがそんな理想的な勉強方針は、頭の悪い自分には通用するわけがない。5ページも進めば疑問にぶつかって、テキストの記述がよくないためだと理屈をつけて、今度は理想のテキスト探しが始まる。まるで図書館のように古今東西の本が部屋に並ぶことになる。こんな金の掛かる効率の悪い勉強を続けていたら、たいした成果が得られるはずがない(と今だからわかるわけだが)。


数学への道は断念してすっかり遠ざかったのではあるが、その勉強方針自体は遠ざかってはいなかったと痛感している。いや遠ざかるどころか、自分の勉強のスタイルの根本になっていやしないかと驚いているところなのである。


それはPhotoshopの使いこなしをめざしていて気がついたのだ。買い集めた本を周囲に並べているのはいいが、どうも「演繹的」な記述のテキストが多い。いちから機能やらメニューやらを解説してあって、もれなく網羅したようなハンドブック的なテキスト完全版みたいなものを集めている。網羅することは悪くないが、演繹的に勉強すると、原理原則をもとに頭のなかだけで理解しマスターしようとする傾向に陥る。


実践が足りない。
トレーニングが圧倒的に足りないのではないだろうか。
画像の背景を透明にしようとしても、霞のかかったようなボカシをやろうとしても、「まず、手が動いていないじゃん!頭ばかり使っているようではねぇ・・・」
考えることなく、手の方がどんどん作業を進めるようでなければいかんのだ。
Excelで計算式を作るときのように考えることなくすすめられなければならない。あるいはオートシェイプでペクトル画像をサクサク作るみたいな。


演繹的に勉強するのでなく、失敗したり袋小路に頭を突っ込んだりしながら、そこから解を見つけて、自己流であっても確実に作業を進められる。そんなマスターの仕方が正解ではないのか。やはり、古くて今も直面する問題に悩んでいる。




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