たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

静かなそして沈んでいる夜

先週末、実家の母の認知症がだいぶ進んでいるという連絡を受けて、様子を見に横須賀に出かけてきた。その連絡は間違いではなかった。70年も以前に亡くなった祖母(つまり母の母)がすぐそこまで迎えに来ていると夕方になると出かける仕度をするそうだ。21歳で亡くした弟が来ているとも言うらしい。それを周囲は妄想と徘徊が始まったのだと。


しかし母は幼い頃に祖母を亡くしていて、子供時代、母はとても寂しかったとかつて語っていた。幼い頃に母を慕う気持ちが一番心の底に残っていたのではないだろうか。直近の時代の記憶が失われるにつれて、水面下に沈んでいた深い記憶が小石のように姿を現す。そんな風に思えた。


認知症は進行を遅らせる薬はあっても、基本的には進行することには変わりはないとのことだった。いまは子供時代にさかのぼっているが、さらに進行すれば幼児になり赤ん坊同様になり、自分の身の回りの世話もできなくなるということは避けられないとのことだ。いまはかろうじて自分の息子のことを認識している様子だったが、次第にそれも失われていくことを覚悟しなくてはならない。


継母、父、弟と次々と肉親と死別する少女時代を経て、結婚してからは遊び人だった夫(つまり自分の親父)にさんざん苦労させられて、なんだかいい時代なんか、ひとつもなかったんじゃないかと思った。あるいは、そういう苦労をしなくて済むように人は自らの正気を静かに停止させてしまうのだろうか。


様子を見に行った際、思ったよりは症状は軽いのではと思った。しかし時間がたち、日々振り返り写真を眺めるたび、やはり深刻な状況に近づいている。症状を軽く思い込みたい自分の気持ちのバイアスがかかっていたと認めざるを得ない。


犬のぬいぐるみを抱いて話しかけている今、苦労のない静かな時間を過ごしているともいえるが、しかしその姿は、若い頃の気丈な母の姿からは程遠いものだった。


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ハウスでは、いちばん好きな花の「多花玉」が開花していた。この苗は多少「アッチラセンセ」の血が混じっているかもしれない。昨年は拗れていて枯れそうで花などつけなかった。今春、復活した。