たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

自我のうごめき

たまには人のことを書こう。批判するためではなく、そこから何がしかを学びとることができるから。


「ソレはちがうんですよ」と、相手の話の腰を折って言う人たちがいる。相手が話している間にその内容に矛盾や無知を見出したのだろうか、もっと深い知識を自分は持っていると表明する人たち。なにがそうさせるのだろうと、先日からずっと気になって考えた。


おそらく自我のうごめきなのだ。自分はもっと知っている。自分は知識を持っている。もっとたくさん持っている。その相手より。そのことを明らかにしなくてはならない。相手に納得させて認めさせなければならない。


オレがオレがと叫び続けてやまない。たぶんそうするのは、自分が失われてしまうと考えるから。沈黙の中で自我が消えうせてしまうと思うから。


自分はより詳しいけれど、相手が会話しているのだから(しかも楽しそうに)、黙っていよう。知らない振りをして・・・そんな風には考えない。会話は会話の順番を交互に渡して楽しむものだから、なにが正しいとか、どちらがより物知りだとか、そんな競争のためにあるのではない・・・そんな風には考えない。


この暴れる自我を抱きつつ沈黙を守ることはとても困難なことだ。つねに自我はうごめいていて自分を拡大し勢力をひろげ、相手を周囲を征服しなければならない。だから会話や議論をしていても、自我が口をパクパクさせている。征服された方は、自我が発散できずに帰りの飲み屋で発散する。あるいは妻を相手に。相手はペットのことも。


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無住法師の『沙石集』という本にこんな話が載っているそうだ。*1
(残念ながら原本にあたったことはない。)
4人の僧が無言の行を山中で行っていた。
夜になり灯かりが消えてしまった。
ひとりの僧が大声で下男を呼び、油を注げと命じた。
それを聞いた2番目の僧が、無言の行の中で声を出すのは何ごとかと非難をした。
すると3番目の僧が、そなたこそ声を出したではないかと2番目の僧に注意した。
さいごに残った僧が言う。声を出さないのはこの俺だけだ。

*1:出展:細川景一『禅語に学ぶ生き方 白馬蘆花に入る』禅文化研究所 p.81