たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

あきらめはなかなかつかない

惜しくも断念するという決心をすることがあるね。ふられて好きな人をあきらめるということもあるし、仕込んできた仕事のネタを捨てるということもある。試験に落ちて進路を変えざるを得ないということも人生にはあるね。そういうときには、欲しかったものを心から切り離さなくてはいけない。


でも「何々を考えないようにしよう」とか「自分はこれをあきらめよう」というあきらめ方は稚拙というか、実はあまり効果はない。おそらくますます恋々としてその対象に執着するようになるんじゃないかと思う。


どこかの本にも書かれていたのだけれど(何の本だったか思い出せないが)、その理由はこんなことだ。このあきらめ方は、
・「何々」という対象を(プログラム言語ではオブジェクトを)
・「あきらめる」という行為(メソッドという処理)を行う
という構造を持つ。たとえメソッドで否定するときでも、「何々を」と想起するときには頭の中にオブジェクトを思い描く。だから「何々を」を思い出してしまい呪縛されるのだ。あきらめがつかない。


具体例で言おう。どの本だったか忘れてしまったその本には、こんな例で書かれていた。「象を思わないようにしよう」と決心しても、「象」をまずイメージする必要がある。一度頭の中で思い描いてしまった「象」を、思わないようにしようと否定するのは矛盾している。すでに「思ってしまった象」は消えない。


「象を思わないようにする」コツは、「猫やトラのことを考える」ことなんだね。簡単に言ってしまえばそれがコツなんだ。「猫やトラ」を考えるときに「象」は決して思い浮かばないからね。
ふられた人をあきらめるには、別の人のことを思うこと。進路をあきらめるには、新しい興味ある道を具体的に探す。単純だけれど、これってけっこう深い意味がある。


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昔読んだ禅のお坊さん話を思い出すね。
二人のお坊さんが旅をしていた。雨が降ったせいだろうか川が増水して、流れが激しくなっていた。そこに渡ったものか困って思案している若い女性がいた。お坊さんの一人が、私が背負って差し上げましょうと、サッとその女性を背におぶって川を渡ってしまった。ところが、もう一人の坊さんは、実は心中穏やかでなかった。女性に触れてはならないという規律があるのに、こいつは安々と触れるばかりか女性を抱きかかえて・・・と内心モヤモヤしていた。うらやましかったのだろうか。
川を渡ってふたたび二人の旅を続けたのだが、心中がモヤモヤしていたお坊さんの方は、2里くらい進んでからもう一人のお坊さんに言った。
「けしからんではないか。女性に触れてはならないのに背負ってしまうとは」
すると、いわれたお坊さんは一言、こう答えた。
「おまえさんは、まだあの女性を抱いていなさったか」


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自分の眼を自分では見ることができない。自分の心が何に占領されているのか、自分の心はなかなか気づきにくい。だから・・・見えない束縛から本当に自由になることができたらいいね・・・