所有と錯覚 〜その2〜
渇望すればするほど、心のどこかでそこから離脱したいと願うものが生まれてくる。
ものごとに夢中になり、心血を注ぐ長い熱病の最後には、
不思議にその気持ちを否定する正反対の心が芽生える。
でも普通は、こんな正反対の気持ちに気づくことはない。
なぜなら自分を熱病にまで追い込むことがめったにないからだ。
そこまで追い込まれて地獄を見た体験を通じて、初めてその存在に気づく。
消費癖やアル中も嗜好癖も、止めたいのに止められない地獄の最中にいる。
しかしその中にいて反対の心に気づく。その中でしか自覚できない。
皮肉なものだ。
体に快適な心地よい空間や衣類や食べ物があるように
心にも快適な心地よい空間、衣類、食べ物がある。
心の安らぐ本来の居場所を希求する気持ちなのだろうと思う。
変な言い方だが、自分にはこれは「仏のこころ」としか言えない。
キリスト教の言い方をすれば「幼児のこころ」。
仏様がどこか遠くから呼びかけてくれている。
早く帰って来いと呼ばれている。それに応える自分の心がある。
そんな実感を持つ。
自分は宗教家ではない。
しかし理性や知性だけでは今後やっていけないことを自覚している。
中心に「それ」が存在していなければ、自分は単なる人形だろうと思う。
そんな思いは年々強くなる。