脳は何と複雑な作業を・・・
必要に迫られ、最近になって計算プログラムの勉強をかじり始めた。やってみては上手く行かないところが出てきて、参考書を探しては理解しようと読んで、またトライしてみる。そんな中で購入した本は次第に増えて、机のうえに山積みになる。
買うのに早すぎた本があり、ちょうどいい本があり、また表紙のデザインに惹かれていたりすることもあるが、人から見れば何と無駄なことを、と思われるだろう。でも昔からこういう脈絡のない、デタラメな、気分に任せた勉強法を実行してきた。
学生時代は、必死になって量子力学をマスターしようと参考書を買いあさった。当時勉強友達がいて、彼の部屋にもやはり同様な状況が出現していた。棚には参考書の列が壮観に並んでいた。その列を二人で眺めながら、この本を理解したら、こちらの上級本に取り組むなどと、とらぬ狸のなんとやら、他愛のないたわごとをいつも言っていた。
でもいま振り返ると、勉強する過程で使う参考書の順番など、勉学コースというのがまことしやかに言われた。けれど、それはウソではなかったか。いやかえって効率が悪かったなと思う。人間の脳の学習方法はもっと複雑であり、意識下でいろいろな作業をやっていることを感じるからだ。
基礎学習コースをマスターしたら、それで基礎が習得できたかと言うとそれはできていない。応用編を学んで、初めて基礎で学んだ基本式の意味や重要性がわかる。弁証法ではないけれど、行っては戻りつつ、スパイラルを描きながら、全体の学力が上がるのだ。応用という結論から、出発点の原理式へ戻る。
上級と称される参考書を手にしてどんどん読んでみることはとても重要だ。理解できなくても、そのことが脳細胞へのプレッシャーになって、どこか潜在意識に植え付けられる。それがあるとき意味を伴って無意識の領域から浮かび上がってくる。ユーレカ!という瞬間だ。自分は理解できていないという劣等感を跳ね除ける瞬間。脳は開放されるのだ。
自分の場合は図形認識するタイプらしいので、理解ができない難しい本の図表や式などの特徴やパターンを、どこかで覚えている。普段は忘れているのだが何かの折に、別ものと突然結びつく。脳は複雑で、理解不能なやり方を行っていて、顕在意識はそれを自覚できないのではなかろうか。
理解し整理できている領域の素材たちが豊富になり、理解レベルの水位が徐々に上昇してきて、ある日以前どうしても分からなかったことが、当たり前のことがらに変化する。系統だった勉強法ばかりが効率的とは限らない。徒弟制度とか職人の修行はみな、師匠の下で、技を盗み見しながら体で体験し、あとから理屈が付いて来るという学習法に思える。昔から習うより慣れろと言うではないか。