意味のあることを・・・
大したことを成し遂げなかった人生だと思う。その貧しい人生の後半で、実は一本の中心軸というものが通っていたんじゃないかとも思う。
法句経の第5節には、怨みに関する仏陀の有名な説教(詩)がある。
若い頃は、こんなことはできはしないと反発すら感じた。でも磁界に吸いつけられるように、逃れようとして周りをグルグルと回り、ついに中心に向かって落ち込んでているんじゃないか。
こんな短い詩だ。
われを罵った。、われを笑った、われを打ったと思う人には、怨みは鎮まらない。
怨みは怨みによって鎮まるものではない。怨みをわすれてこそ、怨みは鎮まるのである。
(法句経 第5 木津無庵 訳)
いく度となく反芻している。法句経というとこの句を思う。
自分に危害を加えた人間、ひどい仕打ちをした人間のことを、四六時中思い浮かべても怨んでみても、相手はそれを悔いることはない。恨みのあまり憤死したところで、ノイローゼだったと言われてまさに犬死。
怨みとは「裏見」だと言われる。
怨むに値する原因はなかったのに、それをあると頑なに信じてこり固まってしまった。まさに陽炎のようなものを実体があると見て人生を振り回してしまう。
怨むことで自分が益するならば、そこに何らかの意味がある。しかし、怨みには何の対価も与えられない。無駄なんだ。