たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

ディジタル

まがりなりにもホームページらしきサイトを作ってみたのが2004年2月。BLOGという便利至極のスタイルができたのはその後と記憶する。HTMLとはなんじゃと言いながら手でタグを打っていた。3年半と少ししか経っていないのだね。しかし心で感じている時間はもっと長い気がする。


まさに50の手習い。技術職でメシを食ってきたわりに、コンピュータと言うものをあまり好いていなかった。関心も持っていなかった。しかしWEB技術を知るにつれて、なぜ好いていなかったのか、その理由が次第に判ってきた。


人間社会の約束事の世界には、仮りの物、儚いものという意識がどうしても働く。コンピュータの世界は、まさに約束事の高度なカタマリであり、取り決めの確実な実行である。その本質には、物質の性質や現世のドロドロしたものが関わっているわけではない。簡単に言ってしまえば、数学の世界の記述で終ってしまう。生身の世界とは階層が上の論理の世界。イスそのものの世界ではなく、イスとテーブルの関係性の部分を抽象化したものだ。


まあそんな訳で、生身の世界こそ本物という意識がどうしても働いて、コンピュータは仮ものと思ってしまっていた。ドストエフスキーの『地下生活者の手記』の主人公のような頑迷な心の姿勢みたいなものを、自ら感じていた。


WEB技術の進展や世界に触れるにつれて、そんな感覚がきわめてあやしくなってきた。
デジカメを使いその鮮明さに驚き、映画『MATRIX』や『13F』を繰り返し見ることで、現実とはいったいなんだろうと考え直し、そうこうするうちに自分が現実と思い執着しているホンモノの世界が、0と1の組み合わせに還元させられてしまうのかもしれない、などと懼れるようになった。


このように考えている脳の働きだって、ディジタルの世界で記述できてしまうかも。ニューロンの興奮はアナログ的に、ある閾値を境に2値判断を行っているそうだが、そんな特性すら記述してテーブルに並べてしまえばよい。


それを限りなく繋げていったら、いま考えている内容やBGMでかけているマルチェロの音楽の心地よさもみな、プロトコルの世界(取り決め)に還元されてしまう可能性がある。やがて地下生活者のような偏屈で頑固で地下にしがみついているブツブツと呟いている男も、いつか再現されてしまうのかもしれない。


この問題はどこか心を寒からしめるものを感じさせるが、技術の進歩の前ではなに大したことではないのかもしれない。



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