たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

ふたたび高島野十郎に会いに

先週より夏休みを取った。長野でのんびり過ごすつもりが、結局BLOGを書くヒマも持てないくらい慌しかった。自分の場合、ちょっと多動性傾向があるのじゃないかなどと思う。つまりはいろんな事柄に手出ししすぎるということだ。ひいてはどれも中途半端、器用貧乏でどれもモノにならない。


8月15日は、猛暑の中の東京都現代美術館に出かけ、『ジブリの絵職人 男鹿和雄展 トトロの森を描いた人。』を見てきた。以前より家内と一緒に見に行こうと約束していたもの。お盆の最中だから混雑が予想されたが、その嫌な予想はみごと的中して、100分待ちの行列に並ぶことになった。


ジブリの映画で馴染みの背景画が相当な数展示されていた。さらにそれらの元となるスケッチや色付け元絵などが展示されていた。以前に、男鹿さんの画集を一冊購入したことがあって、その画業はある程度知っていたが、間近で見る風景の背景画の表現力には素晴らしいものがあった。限られた時間の中で目的に沿う画像が制作される背景画。的確な表現手法みたいなものがあるのだね。


背景画というジャンルになるのだろうか、絵画としては不思議な領域である。背景画のそのものに主張があってはいけない場合もある。なぜならセル画に描かれた主人公たちの活動する背景でいなければならない。一方で、主人公が不在というか背景画自体が主役になる場合もある。トトロの住む大きな木の洞は、想像の産物。またもののけ姫のラストシーンの緑の原野の復活は、背景が自体が主役。


ところで、ネットで注文していた『野十郎の炎』が手に入り、展覧会の行列で並びながら読んだりした。
高島野十郎の人となりが明確にわかった。かなり肌で野十郎を感ずることができた気がする。要約してみたいと思った。


松本市美術館で開催中の『日本近代画家の絶筆展』は8/19が最終日。野十郎の生涯を知った上で、絶筆「睡蓮」にまた会いたくなった。そんなわけで、あわてて混雑していた展覧会に家内と出かけた。


やはり独立独歩の野十郎が描いた作品で、どの流派の絵とも似ていない。他の作品の間に挟まって、ヒッソリとしていた。地味な色彩で塗りつぶされた画面の中で、白く睡蓮の花だけが浮き上がる。忠実に睡蓮が描かれていて、これが本当に84歳の最後の作品なのだろうか。あまりに初々しいものを感じるのだ。周りのどの絵画より上品であり、この絵は絵画で表現した仏典のように見えてしまう。


前回入手した展覧会のカタログはすでに売り切れていた。