たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

『最後の晩餐』の修復

先日、三鷹上々堂(しゃんしゃんどう)に出かけた際に、片桐頼継著『よみがえる最後の晩餐』という書物を見つけて購入した。
NHKスペシャル番組の『よみがえる最後の晩餐〜レオナルド・ダ・ヴィンチ 500年目の再会〜』(1999年5月9日放送)と、ETVカルチャースペシャル『最後の晩餐 ニューヨークをゆく 〜僕たちが挑むレオナルドの謎〜』(1999年9月4日放送)の2本の番組を下敷きに、片桐氏とアメリア・アレナスの両氏が書き下ろしたもののようだ。


残念ながら、番組はともに見る機会を持たなかった。この本の年表によると、ダ・ヴィンチが最後の晩餐を描いたのは1497年あるいは1498年で、ダ・ヴィンチが43歳のときとある。描かれた当時から評判を呼び名画と讃えられたがゆえに、この絵は損傷に対して修復に修復を重ねる歴史であったことが書かれている。そして500年の時の流れの中で、原画がわからなくなるほど他人の手が加えられるという運命を辿ってきた。


元はといえば、ダ・ヴィンチがこの絵画をフレスコ画法で描かず、テンペラで描いたために、壁や空気の湿気の影響でテンペラ絵の具が剥げ落ちるという現象が出た。描かれてわずか20年を経過したころより損傷が始まったという記録があるらしい。このことから500年の間の修復とはいかほどのものだったろう。
しかも今と違って、補修とは作品をまるで完成したばかりの状態にして見せることだったらしいので、補彩という原画への付け加えすら行われた。補修に当たった画家が、自分の趣味や憶測にもとづいて任意に描きなおして、背景にはないツタ模様を加えているという。


そのようにして、ダ・ヴィンチがのせた絵の具の上に、補修絵の具が何層に覆い、さらにその上に剥離から保護するため固定用の樹脂やニスやロウがカバーしている構造となっているという。補修の第一歩は、この後世にのせられた絵の具や固定剤を除去して、ダ・ヴィンチの絵の具を浮き出させる「洗浄工程」から始まった。修復の歴史による加筆や補修を否定することになりかねない作業だが、オリジナルのダ・ヴィンチの絵の具が、停止することのない劣化により脱落し永遠に失われることを何よりも回避するためだったと記されている。


この修復計画が開始されたのが1977年。その3年後に、ピニン・ブランビッラ女史の手による忍耐強い緻密な分析と修復作業が進められた。その修復は20年という贅沢な時間が掛けられたことになる。
ブランビッラ女史の言葉によれば、「瀕死の状態よりなお悪い」状況の名画が、その真実の姿を現したのだが、それは完成したときの最後の晩餐ではなく、その残骸であり、多くのピースを欠いたジグゾーパズルのようなものであるらしい。


しかしダ・ヴィンチの絵の具が表面に現れるにつれてさまざまな新たな発見がなされる結果となったようだ。イエスの口元がうっすら開いていること、ユダの顔の向きがより奥の方向へ向けられていたこと、トマスの左手が描かれていることの発見、シモンの横顔が鼻筋の通った端正な顔立ちの気品に満ちた初老の人物であったことあったことなど。ダ・ヴィンチは素描による下絵を残しているので、これが推理の手がかりになったとある。


女性的な表現となっているヨハネに関して、原作のヨハネがはたしてどのようであったか判然としていない。しかしダ・ヴィンチは女性的に描いたことは確かのようだ。
しかしなぜ大きく身を傾けているのかは明快となった。となりのペトロが、裏切り者が誰なのかをイエスに尋ねてくれと、ヨハネに語りかけている。その語りかけに静かに手を組み、耳を傾けている姿勢をダ・ヴィンチは描いた。このやり取りのさまは、深くイエスの教えを受け取っていたヨハネの立場を象徴している。それに対して短気なペトロは、ダ・ヴィンチによってその右手にナイフを握らされている。このナイフは、やがて大立ち回りを演じイエスを捕らえに来た大司祭の僕の右耳をそぎ落としてしまう剣を暗示しているだろう。