たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

高島野十郎『睡蓮』を見た

昨日、松本市美術館に出掛けた。「生きる見つめる描く『日本近代画家の絶筆』100人の終止符」というタイトルの濃密な展示会を見てきた。じつはこの展覧会の紹介をTVで流していて、高島野十郎さんの『睡蓮』を、どうしても直接見てみたい衝動に駆られた。

高島野十郎『睡蓮』1975年 油彩・布 48.6×50cm 福島県立美術館


睡蓮というとすぐモネの睡蓮を思い浮かべる。ついでリャドのカネットの夜明けを。
でもこの高島さんの睡蓮は、そのどちらにも属さない。いやむしろ正反対といっていい。それでいながら確固とした視点をボクに強いてくるような迫力を感じる。色彩は押さえ気味で、全体を覆うどんよりした沼の色とそれに写る曇天の空の明るみ。その背景に浮かぶ睡蓮の花と葉。なんと地味で、そして心地よい空間なんだろう。48.6×50cmというほぼ正方形の画面に表されたものは、自然を凝視することで獲得された諦観なんだろうか。


展覧会のカタログには、次のような解説文があった。

この睡蓮の絵は、84歳になってなお茅葺小屋に独り寝たきりに近い生活を続ける高島を見舞いに来た姉と姪に手渡したものだという。ここでも、睡蓮の浮かぶ湖面のように澄み切った画家の視線が印象的である。それからしばらくの後、鶴寿園という特別養護老人ホームに入園した彼は、3ヵ月後に急性心不全を起こし、静かに求道の人生の幕を下ろした。(KO)


p.142


経歴も少し変わっている。絵の道を一本道に進んだ生涯ではない。同じくカタログによれば、中学卒業後は美術学校への進学を希望したが、両親の反対で水産学の道を進む。帝国大学農学部水産学科を首席で卒業後は、内省的リアリズムというような作風を追及するようになったとある。画壇との交流もなく、ひたすら自然追求の道を選んだように見える彼の絵画は、彼の自然観あるいは彼の哲学と同義なのだろう。


彼の絵画は、蝋燭シリーズが印象に残る。緊張感のあまり暗闇が叫び出しそうな画面の迫力が印象的だ。しかしリアリズム追求の何十年の旅路の最晩年の一枚『睡蓮』は、そこからはあまりにも変化している。彼の到達した安心の境地を表しているように思えた。

高島野十郎『蝋燭』1934年頃 22.8×15.8cm