たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

わがままで身勝手な脳

ある本によると、脳という器官の本質は、徹頭徹尾、自己正当化、自己保存的、自己中解釈という性質を持つらしい。そういえば思い当たるフシがたくさんある。どう見ても黒としか思えないものが、人によっては白になっていたりする。交通事故の際の責任割合を決める時なんかその際たるもので、自分の立場を正当化するためにいろいろな屁理屈や証拠や法律が飛び交って、なかなか決着しないのが常だ。立場が異なれば、人の数ほど真実はあるという省察と見事に一致している。


事実を究明し、そこから新しい客観的法則を見出すという科学技術の分野だって、その例外ではない。主張する論理にどんな反例があっても、その反例自体がないものとみなすような曲解なんてザラである。ともかく反例には一言も触れず、それはなきものとして、自分の脳の中で整合さえ取れていたらよいのだ。


先日あるブログで、『昔の方が良かった』という述壊が脳の性質によっているという見解が紹介されていて、とても興味深かった。つまり脳というヤツは、自分が快と思う記憶しか残さずに、いやな思いでは記憶から遠ざけてしまうという性質があるから、昔のことは甘美の香りを伴って思い出されるということだ。


もし、生きてきた何十年分ものいやな思い出をしじゅう思い出していたら、たまったものではない。数々の失敗や批判を浴びたこと、はたまたいじめられたことなどをいちいち覚えていたら、気が滅入って終いには首をくくりたくなることだろう。したがって、このような脳の性質というものは、身勝手というよりは自己保存の要請から帰結される当たり前の性質かも知れない。


そう言えば、同じくある本に記載があったのだが、身勝手でなく、公私の別を客観的に判断し、冷静に世の中を見つめる精神が世の中にあるのだそうだ。それは悟りを開いた崇高な宗教人の専売ではなく、ごく身近に居るのだそうだ。それは「うつ病患者」である。うつにかかると脳の身勝手さが失われて、冷静にものごとの姿が見えてきて、とても平常にのんきに日々を過ごすことができなくなり、気が滅入って死をもって解決する他はなくなるというプロセスを踏む。


じつは何十年と「うつ」と格闘してきた身内がいたため相談に乗ったり幾多のアドバイスもしたつもりだったのだが、有効なアドバイスをするという目的を遂げられたことがない。ことごとくアドバイスや慰めの言葉は、冷徹な考察や「真実」により論破されてしまい、太刀打ちはできないのだと覚った。最後は沈黙の時間が流れるのだが、その重苦しさは「うつ」の苦しさであるとともに、世の中の「真実」の苦しさであったのかもしれない。


考え出したらキリのないことを、考え続ければ脳はパンクする。したがって、「まあ次の機会に考えよう、人生はあせっても仕方ない」とか「悩んでいたって、ものごとは進まないや」とか考え直し、内心では「オレもずいぶんと大人らしい考えができるようになったワイ」とか「歳と共に考えが成熟してきたな、オレは・・・」なんて、新たな解釈を持ち出すことで、結局は脳は快楽の結論で終わるという風にできている。ワンワン。