たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

なぜか向き合う勇気がなく

ダ・ヴィンチ・コードという映画を先日DVDでみた。
その動機も全く不純だった。
本屋に出かけたついでに、フラッとレンタルコーナーに入ったのだが、普段から、ほとんど借りない。会員カードも3年も前で切れていた。結局また会費を払って再入会したような始末だった。適当な借りるものが見つからないので、以前話題作になったこれでも借りてみるかと家内と相談して借りてきた。


ダ・ヴィンチのブームにもなり、受胎告知が来日しているというのに、こちらのこの無関心さ。なぜなのだろう。ダ・ヴィンチにあまり向き合いたくない気持ちが昔からあるのかもしれないと思う。その証拠に、絵ですらあまりまともに鑑賞したことがない。


その理由をすこし考えてみようと思いなおした。画集も所有していないので、ネット検索してモナ・リザ画像を眺めている。そう、ボクはこの絵がなんとなく不自然に見えてしまい、すんなりと向き合えないのだと気づく。この名画中の名画といわれる絵画を前にして、違和感を感じてしまう(こんなことを言っていいのかわからないが・・・)。そんな自分がおかしいのか、そのところははっきりわからない。


その違和感のみなもとになっているものとは何かを考えてみる。
(1)人物像とのバランスからいえば、画面の切り取り方は、不自然に横幅が狭い。ネットで調べてみると、情報が出てきた。後世になって両側の部分が切り取られてしまったらしい。それならわかる。モナリザの両脇は窮屈で、絵にするならばもっと空間があるべきだと感じる。そう、現在の横幅を、両脇に+20%づつくらいだろうか。


(2)モナリザの首の長さ。現在見慣れた人体比率からすると、当時の女性は首が長かったのかわからないが、首が少し長く前寄りに感じる。それに顔の向きと首から下の向きが普通じゃないと感じる。肩幅がせまいというべきか。『白テンを抱く貴婦人の肖像』でも肩幅が小さく感じる。これは当時の常識だったのか。あるいは、何か意味を込めているのだろうか。


(3)手の大きさ。右手はもっと鑑賞者の眼に近い位置なので、本来の遠近法ならば、右手の甲は大きく見えるはず。その点、『白テンを抱く貴婦人の肖像』の手の大きさの表現は自然な遠近法になっているように感じる。


こうして考えてみると、モナ・リザはどこかパーツ部分を持ってきて合成した絵に思えてくる。
モデルが誰なのかといろいろと推測されているようだが、モデルを前に描いたものなのか、モデルが実在したのかどうかよくわからない。印象からすると頭の中のイメージを絵にした感じがする。
ダ・ヴィンチは絵の中にさまざまな意味を塗りこめる天才だったようだから、これらは何かのメッセージを意味しているのかも知れない。謎が多い絵画だ。