たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

宇宙から見た日本

先日、衛星から見た日本地形を集めた『宇宙から見た日本』という写真集を購入した。
ほぼ200kmから800kmの上空から日本各地を俯瞰した画像が、収録されていている。
地図などで見慣れた日本列島の実際の地形を、斜め方向から俯瞰している写真が
主で、
地形の凹凸や、山頂が飛び出し冠雪していたりする姿が、とても刺激的だ。
隣町へ出かけるときに、いつも越える峠道も小さく写っている。
伊那谷に住むようになってから、一度高度の上空からアルプスを眺めてみたいなぁと
思っていたのが実現した。


このような興奮に襲われる理由は、絵画を描く時の出会いの瞬間から得られるものとよく似ている。
自分が目指している理想の風景画とどこか似ているのだ。その理由が少し納得できた気がした。


描きたいと感じているのは、広がりのある風景画、あるいは空間の捉えだが、
そのわけは実に単純なところにある。それは、自分の足元とつながった広がり、
自分をすっぽり包む広い空間だ。逆に、自分と無縁の広がりであったり、空間であったりしては意味を失う。
気がつけば、無限とも思える広大な空間のほんの隅っこに自分は立っていたという驚き、
その発見を表現したい。


ボクたちの日常は、こまごました雑事に包まれていて自分のいる場所の
方向感覚をややもすると失ってしまう。いわば一つの点でしかない。
失われた方向感覚を戻す役割、あるいは目覚めの起爆剤となる作品や観点に、
こころが揺さぶられる。感動の本質は、目眩であり覚醒ではないだろうか。


構図としては、自己存在と、それを包含している無限の空間と言う対峙関係がそこにある。
自分と外界は結局は一つという見方もあるが、素朴に自己が、外界と出会う。
その瞬間に触発される気持ちが、表現の原動力ではないかと考えている。
そのことは李禹煥氏の絵画論とも通じているように思う。


人類が初めて宇宙空間に出て、地球を全体像として視野に収めたとき、
地球は青かった」と言ったそうだが、じつはその後にもう一つ恣意的な発言が続いたらしい。
「しかし、神はいなかった・・・」と。
しかし真実はその反対だったのだろうとボクは想像している。
その後引き続き宇宙へ飛び出していった多くの宇宙飛行士たちの行動から、
それは伺える。自らがそこから飛び出すことで、自分を支えてくれていた大きな目の前に広がる基盤、
全地球の姿を前にして、人は新しい何かに気づいたはずだと思う。
そんなことを思いながら、写真集を眺めた。