たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

自分の向こうにあるもの

自己の内面世界の表出に終始する絵画表現というものがいかなる意味を有するものか、
正直ボクには理解ができない。他者の介在しない表現というもの、際限なく自己を吐き出す
という表現形式が、いったい何者足りうるのか、どのような価値を持つといえるのか、
わからないのだ。


言ってみれば、座標軸のない空間において大きさを表現しようとしても、その大きさを
測量する手立てを持たないために、どれほど大きいのかが伝わらない。
そのものの立っている場所や、どちらが上でどちらが下であるのかすらも、
定義できないことだろう。その芸術的価値というものを言う座標を持たない。


さらに究極的に推論していくと、そのような表現は、自分を神であるとする姿勢に行き着いてしまうがために、
他者との出会いという新たなものが生まれる土壌を、初めから拒絶していることになる。


李禹煥氏の次の言葉は大変示唆に富む。

ぼくから出たものと向こうからやってくるものが一つの地点に出会ってある作品となる。
作品が幾分ぼくであると同時に幾分彼であり、また幾分彼でないと同時に幾分ぼくでないという
両面性を帯びるのはそのためである。だから作品は、つねにぼくよりも少し先へ、
ということは彼からも先の地点に立つことになり、ぼくと彼と作品は三角関係をもよおす。
『余白の芸術』p.345


作品は、自分自身の表出そのものを意味しないことはもちろん、対象をそのままの形態で
忠実に写し取ったものであるわけでもない。少し逆説的な言い方ではあるが、
対象を対象どおり忠実に表現するのでなく、予想外な方式や形態や色彩で表現することにより、
より対象に迫るすばらしい作品だって生まれうるのだ。