たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

李禹煥氏の絵画論

先日から、李禹煥さんの大部の芸術論集『余白の芸術』を読んでいる。
4,500円というちょっと高価な本だった。
だが、パラパラと立ち読みして、しびれるような共感を覚えて、
これは自分の人生に避けて通れないなと観念し、レジへ持参する。
(なにも本を買うのに勝ち負けではないのだが)
不勉強なことにいままで李氏のことは知らなかった。
むろん作品に触れたことはない。略歴を見ると、詩人で画家、
多摩美大の教授でもあるらしい。


絵画を描くという行為は、写真のそれと基本的に同じというのが、
李氏の絵画論の立場だ。つまり写真と同じく、絵画においても、
「これしかないという最高のタイミング」で世界と出会い、
その瞬間を切り取り定着させるのが芸術であるという考え方だ。

アングルやタイミングを無視したような、何となく対象物が写っている写真は、
何かの証拠にはなろうが、それ以上のものを感じさせることは少ない。
逆に言うと、あまり感じない凡庸な写真には、タイミングが写っていないのだ。
シャッターチャンスは、被写体を巡る無数の時々刻々のある一瞬であるが、
どの瞬間のアングルを捉えるかが写真家の感応力の質、才能に関わっている。
(p.137)


このような瞬間をバシュラールは「詩的空間」と呼んだという。
バシュラールの名前は昔から聞いたことはあるが、
読まなくてはいけないなぁ・・・)
元来、画家の仕事も詩的空間の発見、構築、定着であるとの趣旨を述べている。

具象抽象に関係なく、ある一瞬にこだわる場合が多い。長い時間かけて
描く時、初めの出会いを想起し続けようとすることもあれば、集中力で
時々の一瞬一瞬をを繋ぎ合わせようとすることもある。誰でも指摘する
セザンヌゴッホのあの初々しいタッチの一つ一つは、まさに画家の、
世界との出会いの一瞬一瞬を雄弁に物語っていよう。
(p.138)


(本当にしびれてしまうなぁ。いいことをいうものだ。)
このような実践に即した絵画のことを語る本に出会ったことがない。
自分もほそぼそ水彩画を描いてきて、体験的にだが、絵画が世界と一体となる
「はまった一瞬」というものを感じてきた。それをうまく言語化できないでいた。
そこには単なる写実の技だけではない、何かが介在し、それが絵画の生命でもある
ということである。
問題はその詩的空間が立ち昇る作品かどうかということになる。

そうすると芸術家とは、どこか危険で一際欲張りな人種なのだ。
何かの弾みにちょっと見えたかと思うとすぐ日常に戻ってしまうような詩的空間を、
何とかしてどこかに繋ぎ止めたがるからである。
換言すれば、テンションの高い刹那的なある場面を、何らかの方法で構造化して
普遍性と持続性を持たせるのが芸術家と言っていい。
瞬間の輝きを浮き彫りにする仕事こそが、現実を救い見ることを豊かにしてくれるのだ。
(p.140)