たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

[本]どうも引っかかるなぁ

茂木健一郎著『生きて死ぬ私』を、飽きずにひっくり返しては読んでいる。
その理由は、どうも引っかかってしまう一節があるのだ。それは本当だろうかと思いをめぐらせているからである。
ビートルズの「In My Life」の歌詞にちなんで考察されている一節。このビートルズの歌の歌詞は、中年男が、自分の人生はいろいろあったなと、ウイスキーを飲みながら回想しつつ、それぞれの場面で出会った恋人や友人たちを、自分は愛してきた、と言うような淡々とした内容である。

だが、ごく普通の人間が、人生についてこのような感慨をもらすようになったことの意味は大きい。歌詞の中に、神、天国、地獄、生まれ変わりといった言葉が全く出てこないことに注目してほしい。・・・現代人にとっては、この「現世」の中での自分の生き様だけがすべてで、それに付け加えるものも、そこから引き算されるものも何もないのである。

ちくま文庫版 p25


確かに、神のご加護がありますようにとか、日本ではお天道様のお陰ですという言葉に代表される日常化した宗教心は、過去にはあったように聞いている。過去に絶対的な権威を持っていたキリスト教会も、民主主義、平等、自由という現代の価値観の前で、それらと整合を取りつつ形を変え生き延びているのだと想像する。進歩する科学技術と折り合いをつけていかざるを得ない事情もあるだろう。あらわには神とか天国とか地獄とかは語られなくなった。現代において語られる会話の中でそれらの言葉が主役となることは終わりを告げ、その代わりに別の特有な言葉が語られているように思える。


しかし、どこか引っかかるのだ。神や天国や地獄が主役の座を降りたからといって、
『現世の生き様だけがすべてで、それに付け加えるものも、そこから引き算されるものも何もない』のだろうか。
たとえば、『神が死んだ(ニーチェ)』あとの人間の生き様は、いったいどうなるのだろうと、ささやかながらボクはずっと考え続けてきた。そのような価値観が崩壊した後に、人はまっとうに胸を張って真正面を向いて、前進できるのだろうか。できるとしたらそれは何だろうか。


フランクルの思想もある。フランクルの思想を、まだ正確な位置をすえて自分の中でとらえることができずにいる。また禅に代表される仏教は一度でも神を語ることはなかった。仏教は登場するのがすべて人間である。神が死んだという世界観は仏教では意味を成さない。ならば、現代の仏教者は現代という科学技術の進んだ時代をどうとらえているのか、あるいはその問い自体が意味を持たないか。神とか天国とか地獄などの言葉の代わりに立ち現れてくるものとは何か。あるいは代替の言葉を失い、形而上的な価値が何もない状態が永遠に続くと考えられるのか。


現代を象徴する言葉とは何だろう。
倦怠。無意味。孤独。自己の溶解。というような言葉が思い浮かぶ。
これらは畢竟、何かを指し示しているのではないか、とも思う。