たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

見えてくる

目に見えていたはずだが、本当には見てはいなかったということがある。
あるとき会社の階段を歩いていて、ステップの色が淡い緑色であることに気づいた。
何年もそのステップを踏みしめて仕事をしていたはずなのに、その日に気づかなければ
おそらく、何色だったかと問われても答えられなかったろう。
人間の視細胞から入る画像刺激は、刻々と変化して膨大な情報量だ。
たぶん網膜には変化の激しい画像データが結像していたはずである。
しかし脳はその画像そのものを逐一正確に見ているのではないらしい。
理解可能なカテゴリーに、その都度分類し意味づけをしながらデータを解釈しているようだ。
だから、分類できないもの、意味づけのできないものに対しては、情報が脱落してしまう。


むかし好きで夢中になった水彩画家の絵が、長い年月が経過して鑑賞すると、
なんだか見劣りして見えることがある。
その当時には見えていなかった色彩の使い方における乱雑さや、
濁りなどが奇妙に気になって楽しめないのだ。
同じ絵を同じ画集で見ているのだから、絵の方が変換する可能性は低い。
こちらの脳の画像処理と意味づけが変化してしまったのだ。


逆に見えていなかったものが見えてくることもある。
単にのっぺりした淡い色彩で、つよい印象を持っていなかった絵画が、
ある日突然に、のっぺりした中に実に微妙な色彩で、かすかな分類と意味づけが
されていることに気づきびっくりする。微妙な部分の識別ができるほどに
脳の画像処理系が繊細に精密になるためだろうか。
目利きとは常人が到達し得ない高みにまで微妙なものへの識別眼を有するプロのことだ。
それはちょうど、苦労を重ね年齢を重ねるにつれて、
人の気持ちのこまやかな機微が理解できるようになることとどこか似ている。
深い味わいの絵画とは、ひょっとしたらほとんど灰色しか描かれていない
墨絵のような絵かもしれない。