たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

ふたたび『鏡の法則』について

前回の『鏡の法則』の続きだけれど、この本の中でキーワードになっている
「ゆるす」という行為についてあれこれと思いが巡っている。
よくよく考えてみると、「ゆるす」という行為の不思議さにうたれるのだ。
行為と表現したけれど、実際体を動かして、目に見える行動を起こすという種類の行為ではない。
きわめて内的で個人のこころの中でひっそりと行われる、決意を固めるような行為だ。
あいまいなこころの揺れをすっぱりと捨てて、氷に結晶化させるような意思だ。


解説とあとがきに、次のような言葉がある。

「私たちの人生の現実は、私たちの心の中を映し出す鏡である」という法則があり、
これが『鏡の法則』である。

「ゆるす」という行為が、不思議だなと感じる理由。それはここにあると思う。


「ゆるす」とは、一義的には相手をゆるすことに他ならないのだが、
より深いところで同時進行して、自分を「ゆるす」ということにつながっている不思議さなのだ。
相手をゆるすとき、自分もゆるされる。
相手をゆるせないとこころを「頑なにするとき」、自分もゆるしていない。


いわば、相手のことと自分のことが、こころを蝶番にして繋がっていて、
連動しているんじゃないかと思えることだ。
いや本当のところは、地下水脈みたいに一体に繋がっているんじゃないか。
相手をゆるせないのに、自分をゆるすとか
相手をゆるしたけれど、自分はゆるせないとかいう状態は
じっさいのところ生じ得ないのではないかと思えるのだ。


ゆるすとは、結局のところ、蝶番になっているこころをやわらかくして、
ゆるゆるにすること、頑なになっているこころを解放し、
自由にするという行為なのではないかと。


「ゆるす」の語源は「ゆるゆるにする」なんだろうか。
「ゆる」トレーニング運動を提唱している高岡英夫さんの
書籍をもう一度読んでみようか。