たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

散歩に出て

駒ヶ根市を望む

日ざしが延びた。夕刻6時をまわってもまだ明るい。
カメラと犬の引き綱を持ち、ココ(飼い犬)を散歩に連れに外へ出た。
梅雨の合間に特有な、湿り気の多い空気が山の斜面から降りてきて、
犬と自分を包み込む。
見晴らしのいい斜面のポイントに来た。犬を待たせてカメラを構える。
緑の濃くなった田んぼの稲の列がうねり、あぜ道が平行してうねり、
田んぼが何枚か連なり、その先には車の走る姿が遠く見える。
連なって走っているのは、仕事を終えた会社帰りの車かもしれない。
さらにその先には、駒ヶ根市の遠景が広がり、夜の灯りがポツポツと
点きはじめた。
ゆるやかで暖かな風がこの広がった地表を撫ぜていくのがわかる。
斜面の上方を振り返れば、この地域の氏神を祭る高烏谷山の山容が、
ボクたちを見下ろしている。

こんな風景はおそらく何百年の昔から変わりなかったはずだ。
自然は大きな時間の中でゆっくりと歩んでいく。
その時間のスケールに比較して、一人一人のボクたちの営みは、
なんとせかせかとあわただしく、かつ一瞬なんだろう。
自然の大きな時間を見つめる眼からみれば、こうして散歩している自分と犬も、
舞台の上で、一瞬現れては消えていく小さな役者にすぎない。
まして日々の暮らしの中で、ああだこうだと口角泡を飛ばしている
生き様や、そのことを思い煩うこの心は、
この自然とは、どんな接点も見出せないと感ずる。
ボクたちの思い煩いというのは、そのほとんどが、まだ来ない未来のことだったり、
もう済んでしまった過去のことがらをひねり回すことから成り立っていて、
この瞬間を楽しんだり味わったりすることがいかに少ないことか。
今を楽しむことが、いけないことであるかのような、そんな教育を受けてこなかったか。
足元を軽視する文化に毒されていることに、気づくべきなんだろうと思う。
「まったく大自然から見れば小さなことで騒いでいて、笑っちゃうね」
としゃがみながら犬の背中をなぜる。
犬もそんなことはどうでもいいんだという顔をして、遠くを見つめている。