たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

詩を生産すること

辻征夫さんの文章を読んでいたら、辻さんは22歳のときに第一詩集『学校の思い出』を自費出版、そして自分の詩はこれで終わりと思ったとある。しかしその後詩とは無縁でいられなくて、30歳になったとき、詩の書き手になるんだと決意した。このとき考えたことなのか不明だけれど、寡作じゃしょうがない、どんどん詩を書くための自分のメソッドを確立しようと務めたらしい。つまり詩を意識的に仕上げてしまう方法論みたいなものを考えた。


それはどんな手法なのだろう。知りたいものだ。辻さんは具体的には語っていないのだけれど、結局、詩の断片を書きなぐった紙片を、足元やそこらに散らばらせていて、それらを眺め眇めつして、悪戦苦闘して詩にまとめたような雰囲気を感じる。一説には床に断片詩をズラッと並べて、イスの上に立って眺めて推敲していたとも。これは現代詩文庫の詩人論で読んだのかな。


これを何十年とやっているとボロボロになり、くたびれちゃった、というようなことを書かれている。心が砕けてしまうという表現をされている。これは何となく分かるな。詩人というと歌うがごとく興に応じて、言葉が自然に流れるように出てくるように思うけれど、それはどうも幻想だ。むしろ建築家であり、設計者であり、土木家なのだ。人知れず努力し苦闘し消耗しているのだと思う。

辻さんの印象的な詩に『月光』という作品がある。作家がみな夜な夜な苦心惨憺して作品を書きつづる様子を、夜空を巡る月が見て語るという作品だが、この詩をふと思い出す。


これは詩に限らない。音楽の作曲の現場もそのようなものだろう。創作の舞台裏はそれはすさまじいものがあると思う。演奏会は晴れ舞台にすぎない。絵の世界だってそうだ。炎天下でスケッチをすれば眼はわるくなるし、掻き毟らなくとも頭の毛だってどんどん抜けてしまう。自分の作品を前に、何かが足りないと呻吟する日々が続く。創造するとは何も頼るものがないのだから、体が資本で、体で勝負みたいなところがある。命と引き換えに絵を描くというところがある。そして創作活動には休みというものはない。ゴッホは日曜日は絵を描くことを休養して、イスに寝転んでいたでしょうかという反語は、なかなかつらいけれど真実を語っていて、ホンモノだと思う。